第25回大会のお知らせ
開催日時:2025年12月7日(日)9:30〜18:00
開催形態:ハイフレックス
対面会場:青山学院大学青山キャンパス14号館(総研ビル)8階第10会議室
オンライン参加用URL:研究発表;シンポジウム(要事前登録)
参加費:無料
プログラム
1. 研究発表(発表時間30分 質疑応答15分)9:30~11:45
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①9:30~10:15|福田大輔(青山学院大学)
北村公人(立命館大学)「手紙焼却がもたらした喜劇 ——ラカンによるアンドレ・ジッド論の再読——」
②10:15~11:00|司会:原和之(東京大学)
石﨑美侑(京都大学)「欲望と倒錯のミザンセーヌ:ラカンの〈他者〉とフロイトの「新しい主体(neues Subjekt)」」
③11:00~11:45|司会:小林芳樹(小林心療内科・精神分析室)
藤田紘一郎(京都大学)「ラカンの因果性の概念にみるヤスパースとの格闘」
2. 昼休み 11:45~13:30
3. 総会 13:30~14:15
①議長選出
②会務報告 論集刊行に関する報告など
③決算(2024/2025年度)審議
④予算(2025/2026年度)審議
⑤次年度活動計画について
4.大会シンポジウム 14:30~18:00
「欲動論的身体を問う——精神分析、文学、映画」
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司会:福田大輔(青山学院大学)
提題:遠藤不比人(成蹊大学)、斉藤綾子(明治学院大学)、佐藤朋子(金沢大学)
2024/2025年度、日本ラカン協会は「身体と精神分析」を年間テーマとして活動してきました。夏と秋に開催されたワークショップでは、それぞれオンライン精神分析と作品制作というトピックをめぐって、このテーマがもつアクチュアリティを確認しました。現場からの報告を交えたその考察は、今日の事象を捉えるうえで重要な論点をいくつも明らかにするとともに、テーマそのもの、すなわち、その広がりと中心に位置すると思われる問題とに対する理論史的、言説史的な関心をあらためて喚起することになりました。
そもそも「身体と精神分析」は、どのようにしてテーマとなりうるのでしょうか。「と」という並列の格助詞、あるいは「and」や「und」、「et」等の等位接続詞は、この二つの名詞のあいだにどのような関係性を措定し、どのように思索と議論の場を開くのでしょうか。思い起こすなら、フロイトにとって、精神分析とはあくまでも、心の出来事を探究するための手法、かつその手法により得られた心理学的な知識の集積であり、定義からして身体を直接的な対象としない営みでした。それでも、身体を、自らにとって絶対的に不可知なものと位置づけることなく、その性的な性格と死への定めとにおいて論じようとする営みでもありました。フロイトにおいてその論及の可能性を担保しているのは、「心的なものと身体的なものの境界概念」としての「欲動」概念であり、この概念の定義に現れる「と」です。
精神分析の探究のなかで「身体」は、なによりもまず、快と不快に代表される様々な情動、そしてそれらの情動を帯びた種々の感覚やイメージなどを介して知られることになります。この「身体」は、欲動概念の導入によって主題的に問題化されるという意味で「欲動論的」と形容されることができますが、他方で、もっぱら精神分析によって排他的に問われるものとは思われないことも事実です。むしろ、心的に知られるものを通じて身体を問うことはつねに何らかの仕方で試みられてきたのであり、精神分析による問題化はその一例を示すに過ぎない、と考えるほうが適当ではないでしょうか。
本シンポジウムでは、欲動論的な身体が精神分析、文学研究、映画研究においてどのように論じられてきたか、どのように論じられうるかを考察し、この問いかけを通じて多面的な問題群を浮かび上がらせることで、新たな研究の展望を切り拓くことを目指します。
佐藤朋子「フロイトにおける身体の問題——欲動の二元論、個人心理と集団心理の間隙」
遠藤不比人「情動の物質/身体性——フロイトの夢テクストにおける記号の奇形化」
斉藤綾子「フェミニズム映画理論と精神分析の出会うところ——ローラ・マルヴィを中心に」
概要
研究発表
北村公人「手紙焼却がもたらした喜劇 ——ラカンによるアンドレ・ジッド論の再読——」
本発表は、ラカンによるアンドレ・ジッド論を、手紙焼却事件を中心に再検討する。従来、この事件はマドレーヌの行為に焦点が当てられ、女性的享楽の発露として解釈されてきた。これに対し本発表は、事件を通じたジッドの変容に注目し、ラカンにおけるフェティシズム概念を(1)欠如の否認と(2)欠如の演出の二相に区別して検討する。そのうえで、『無意識の形成物』と『エクリ』の読解を通じて、手紙の喪失を悲劇的契機としてではなく、サテュロス劇的契機の内在化によって喜劇的運動へと反転させるジッドの変容を明らかにする。
石﨑美侑「欲望と倒錯のミザンセーヌ:ラカンの〈他者〉とフロイトの「新しい主体(neues Subjekt)」
欲動は常に能動的なものであるが、実際はしばしば能動性/受動性という対立対の形をとって現れる。その好例がまさに倒錯であり、「欲動と欲動運命」において示されるように、欲動が受動的な目標へと向かうためには「新しい主体」(GW10, 222)の存在がなくてはならない。このことと、欲望の支えとしてのファンタスムの機能およびファンタスムにおける主体の位置を示すにあたって、ラカンが窃視/露出をモデルにしたこととは、決して偶然の一致ではないだろう(1959年6月3日のセアンス)。倒錯ほど、主体の欲望が維持されるために〈他者〉の次元が不可欠なことを証言する現象はないのである。
藤田紘一郎「ラカンの因果性の概念にみるヤスパースとの格闘」
ラカンのキャリアはフランス精神医学にヤスパースの記述病理学を導入することから始まった。しかしこのときラカンはヤスパースの理論をそっくりそのまま踏襲したわけではなく、ヤスパース病理学の肝たる了解関連の概念に手を加え、本来は了解関連と対立する概念であるところの、因果性の概念を接続する。因果性の概念はこれ以降のラカンの理論変遷において重要なポジションを占めるが、最初はヤスパースの受容において俎上に載せられたのだ。そこで以降の因果性についてのラカンのテクストの中にもヤスパースとの格闘の痕跡を読み取ることができるのではないだろうか。本発表ではこれに取り組む。
シンポジウム提題
佐藤朋子「フロイトにおける身体の問題——欲動の二元論、個人心理と集団心理の間隙」
フロイトは、精神分析の創始を標す記念碑的著作『夢解釈』(1900年)において、「夢は願望充足」、つまり心的な形成物である、というテーゼを呈示することによって、心的生活の領域を拡大した。さらには、そのテーゼのなかで用いた「睡眠願望」の観念によって、心の問題の再規定に応じて身体の問題をあらためて提起する可能性をも示唆するにいたったように思われる。本発表では、この可能性が実際にフロイトによって、どのように、どこまで開発されたのかを考察する。まず、「欲動と欲動運命」(1915年)における「心的なものと身体的なものの境界概念」という「欲動」概念の定義、ついで、『快原理の彼岸』(1920年)による当時の生物学的言説の参照を検討する。そのうえで、『集団心理学と自我分析』(1921年)において心的生活の始まりに関して定式化された命題、すなわち個人心理と集団心理について同等の古さを主張する命題を解釈することによって、身体の問題の所在を明らかにすることを試みる。また、同テクストで語られた原始群族の神話の重要性と重大性、とくに「身体的自我」の理論(『自我とエス』1923年)にとっての予備的かつ規定的な条件としての意義を強調することを通じて、フロイト研究の文脈の外へと議論を開くきっかけを探したい。
遠藤不比人「情動の物質/身体性——フロイトの夢テクストにおける記号の奇形化」
フロイトの夢工作が頓挫する場合の一つは、過剰な無意識的内容を伴う情動量が一個の表象に圧縮され、それが夢テクストの顕在内容において一種異様な強度に満ちた記号と化すときである。その典型的な例を「イルマの注射の夢」や「子供が燃える夢」に指摘することができる。フロイト自身は、そのような箇所を「夢工作が脆弱な箇所」「情動に満ちた箇所」「夢が不審な印象を与える箇所」と呼ぶ。また論文「無意識」でフロイトは、夢工作は言語を一種「もの」のように扱い「新語制作」のようなことをすると論じている。このような文脈において問題となるのは、夢工作における経済論的次元と意味論的次元の齟齬である。過剰な無意識的な情動量は、顕在内容において意味論的に最小化(周縁化)する必要があるが、この構造的な矛盾により、夢の表層の表象は一種奇形化しその質量を増大することになる。その箇所は、意味論的に重層決定されており、最終的な解釈を拒む場所となっている。フロイトは、活字の隠喩を使い、これを表象の「肉文字化」「太字化」とも呼ぶ。本発表は、フロイトの夢工作におけるこのような意味での情動の表象(表層)化=奇形化をめぐり、脱構築的な解釈を行い、その文学的な含意を問いたい。また、この記号の情動的物質性をめぐり、20世紀のモダニズム芸術との間テクスト性についても論究したい。
斉藤綾子「フェミニズム映画理論と精神分析の出会うところ——ローラ・マルヴィを中心に」
フェミニズム映画研究は、1975年にローラ・マルヴィが「視覚的快楽と物語映画」(Screen, 16.3: Fall, 1975)の問題提起を皮切りに議論が活性化した。精神分析理論を「武器」として導入したマルヴィの議論は二段階を踏む。まず、映画理論の視座を美学・作品論モデルから視の制度・観客論へと拡大させたC・メッツを代表とする精神分析映画理論に潜在する性差という盲点を突き、次に精神分析モデルが規範とした男性主体の無意識機構を逆照射し、主流のハリウッド映画の映画表象様式が家父長制下にある男性主体の無意識的機序によって決定されると主張、さらにその機序に内在する男性主体を脅かす去勢不安が、「見る男性、見られる女性」という視覚表象様式をめぐる主客関係と物語叙述を制度的に形成してきたと説く。このように女性描写の是非判断を主軸としたフェミニズム映画批評の方法論の再考を迫ったマルヴィだが、皮肉にもその議論は女性主体と欲動の関係を軽視しているのではないかという批判を呼び、その後の理論的修正が試みられるようになった。本発表では、精神分析映画理論をどのような目的でフェミニズム映画理論に取りいれ、いかに女性主体、女性身体が男性主体を規範とするモデルに対抗するモデルとなりうるか、さらに視の制度と身体性の問題へと発展させられるかを理論と実践の両面で模索したマルヴィの試みについて考えてみたい。
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