第15回大会

◇ 日本 ラカン協会第15回大会報告

 
2015年12月13日、本協会第15回 大会及び総会が専修大学神田校舎において開催されました。
 午前 9時から、日高直保会員(上智大学大学院総合人間科学研究科心理学専攻)による「ラカンと現象学 ――「転移」をキーワードに」、三宅由夏 会員(東京大学大学院人文社会系研究科)による「前エディプス期の政治性――ジャメイカ・キンケイドの初期作品を読む」、および萩原優騎 会員(東京海洋大学)による「精神分析家の万能感?――ラカン派の社会分析への疑問」という研究報告が行われました。
次に、昼休みを挟んで、午後1時から会員総会が行なわれました。
会員総会においては、事務局長による会務報告が行われ、予決算が承認されました(別紙参照)。
 次年度の活動計画としてはワークショップおよび大会シンポジウム、論集の発行、読書会・研究会の開催が計画されている旨報告がありました。

  午後2時からはシンポジウム〈「欲望機械」と「欲望の弁証法」――ガタリ、ドゥルーズ、ラカン〉では、立木康介 理事(京都大学)による司会進行のもと、佐藤嘉幸 氏(筑波大学)による「ガタリ=ドゥルーズ――『アンチ・オイディプス草稿』を めぐって」、財津理 氏(法政大学)による「『差異と反復』と『アンチ・オイディプス』における欲望の概念」、原和之 理事(東京大学)による「転移、逆転移、そして分析家の欲望」という提題が行なわれ、午後6時の予定時刻をこえて活発な議論が行われました。
 シンポジウム終了後は、懇親会が開催され、約30名の会員が出席し、盛会のうちに終了しました。

 なお、大会当日は午後1時から役員選挙の開票が行われ、理事・会計監査として、以下7名が選出されました。

     理事(五十音順):磯村大・立木康介・原和之・福田大輔
                福田肇・平野信・若森栄樹
     会計監査:川崎惣一

 役員選挙後に初めて開催された理事会において、原和之 理事を理事長に、福田大輔 理事を事務局長とすることが決定されました。また、伊吹克己 会員・小林芳樹 会員・松本卓也 会員に委嘱理事をお願いすることも決まり、その後の依頼でいずれもご快諾いただくことができました。理事会では必要に応じ、規約の定める範囲で委嘱理事を 弾力的に設置するべく検討を重ねております。

 現時点(2016年7月31日)での理事会の構成・会計監査は以下の通りです。

理事会(五十音順):磯村大・伊吹克己・小林芳樹・立木康介・原和之(理事長)
平野信・福田大輔(事務局長)・福田肇・松本卓也・若森栄 樹


 会計監査:川崎惣一


◇ 日本 ラカン協会第15回大会プログラム

 日時:2015年12月13日(日)  9:00~18:00
 場所:専修大学神田校舎7号館731教室(3F)
     (〒101-8425 東京都千代田区神田神保 町3-8)
 交通: 営団地下鉄・神保町駅 徒歩3分
 大会参加費 :無料

1. 研究発表 9:00~12:15  (発表時間30分、質疑応答15分)

9:00-9:45 日高直保(上智大学大学院総合人間科学研究科心理学専攻)
        「ラカンと現象学 ――「転移」をキーワードに」
                 司会: 福田肇(樹徳中高一貫校)

概要:ラカンはセミネール Ⅷにおいて、 「転移」概念を主題的に扱った。そこではラカンは転移を「奇数性ー不等性」(disparité)と規定し、転移を「間主観的」 (intersubjectif)な現象と据える考えを退けた。しかし、そのことは転移にたいする現象学的アプローチをすべて反故にするということを意味 するのだろうか。私たちは、「間主観性」を排し「奇数性-不等性」によって理解されるような転移のラカン的概念を明らかにしたうえで、現象学的方法がなお も転移という現象を記述する余地を残しているかどうかを問いたい。

9:50-10:35  三宅由夏 (東京大学大学院人文社会系研究科)
                     「前エディプス期の政治性
                                                 ――ジャメイカ・キンケイドの初期作品を読む」
                     司会: 福田大輔(青山学院大学)

概要:ジャメイカ・キンケイド(1949- )は、カリブ海のアンティーガに生まれ、渡米後に執筆活動を始めたポストコロニアル文学作家として知られている。とりわけ初期の作品には、前エディプス期 が極度に理想化されたかたちで記述されており、「母娘関係」につよく執心する作家の痕跡がみられる。本発表では、散文詩集『川底に』から長編小説『わたし の母の自伝』にいたるまでの初期作品における、前エディプス期の政治性について明らかにしたい。

10:40-11:25  萩原優 騎 (東京海洋大学)
                        「精神分析家の万能感?――ラカン派の社会分析への疑問」
                       司会: 平野信(こころの分析室・北小田原病院)

概要:ラカン派の精神分析の観点から現代社会の諸相を論じる研究が、日本でも多く見られるようになった。それらの研究は、精神分析の視点によって明らかに なる事柄を示し、さらに問題解決の方途も示しているという点で、一定の意義はある。しかし、倫理学や社会学における各種の先行研究との関連で見た場合、疑 問を抱かざるを得ないものも散見される。そのような疑問が生じる理由と、そこに見られる問題点を検討し、今後の可能性を展望する。

11:30-12:15  久保田 泰考 (滋賀大学保健管理センター)
                        「反復・エントロピー・転移
                                                        ―あるいは、健忘と死の欲動について」
                       司会: 磯村大(金杉クリニック)

概要: 50年代のラカンは反復について「転移の経験の歴史へ向かう時間性」” la temporalité historisante de l’expérience du transfert”と語っている(Ecrits, P.318)。反復が無意識を基礎づけるとすれば、純粋に反復のみによって構成される転移関係はありえるのか?こうした問いを、ドゥルーズ「差異と反復」 第二章《死の本能、対立と物質的反復》を参照しながら、以下のようなSF的思考実験に接合し、考察を試みる:「エロスとムネモシュネとの相関関係」la corrélation d’Eros et de Mnémosyneにとって代わる、「健忘症に陥った記憶なきナルシシックな自我」un moi narcissique sans mémoire, grand amnésiqueとしてのサイボーグと、「愛なき脱性化された死の本能」un instinct de mort sans amour, désexualiséを印付ける精神療法家の関係はどのようなものか。

2. 昼休み  12:15~13:00
*この時間に理事会が開催されますので、理事の皆さんはご参集ください。

3. 総会  13:00~14:00
① 議長選出
② 会務報告… 論集刊行に関する報告など
③ 決算(2014/2015年度)審議
④ 予算(2015/2016年度)審議
⑤ 次年度活動計画について

※ 役員会選挙開票 
    役員選挙投票は総会開始時(13:00時)まで

4. シンポジウム 14:00~18:00

日本ラカン協会2015シンポジウム
「欲望機械」と「欲望の弁証法」─ガタリ、ドゥルーズ、ラ カ ン

司会 : 立木康介(京都大学)

「ガタリ=ドゥルーズ――『アンチ・オイディプス草稿』を めぐって」
提題者 : 佐藤嘉幸(筑波大学)

「『差異と反復』と『アンチ・オイディプ ス』における欲望の概念」
提題者 : 財津理(法政大学)

「ラカンにおける「欲望」とその「対象」:
 「エディプス」的布置とその再編成」
提題者 : 原和之 (東京大学)

各提題40分、議論・質疑応答5分

※ なお、大会終了後、有志による懇親会を予定しておりま す。
お時間に余裕のある方は、こちらの方にもご参加ください。

日本ラカン協会
第15回大会シンポジウム

「欲望機械」と「欲望の弁証法」─ガタリ、ドゥルーズ、ラ カン

12月13日(日)14:00-18:00
専修大学神田校舎7号館731教室(3F)

司 会
立木康介(京都大学)

提 題者
佐藤嘉幸(筑波大学)
財津理(法政大学)
原和之(東京大学)


 1972年に出版されたジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著『アンチ・オイディプス』は、フランスの精神分析、とりわけ、当時、事実上それを 代表していたラカン派精神分析に、かつてない衝撃を与えた。ガタリは長年にわたるラカンの「生徒」であり、そこから放たれた批判は、1950年代以来ラカ ンとその実践がつねに晒されてきた、敵対者たちからのあからさまに政治的な批判とは異なり、ラカン理論のたしかな読解に裏打ちされた文字どおり内在的な批 判だったからだ。いや、フランソワ・ドスが指摘したとおり、『アンチ・オイディプス』は「ラカニスムが抑圧してきたものの暴力的な回帰」だったとすら言え るかもしれない。ラカンによる「フロイトへの回帰」は、「無意識は言語のごとく構造化されている」という名高いテーゼに要約される。それは何よりも、「欲 望」をシニフィアンの構造のなかで、この構造の「法」に即して、捉え、読みとることを教える。ドゥルーズとガタリのねらいは、ラカンによって欲望に課され たこの「象徴的決定」の枠組みを、件のテーゼごと吹き飛ばすことだった。こうして、『アンチ・オイディプス』において、欲望はその本性上シニフィアンから 解放され、あらゆる物質のあいだを自由に運動する「流れ」として捉え直される。同時に、「無意識」もまた言語の構造とはほんらい無縁なマシン、法にした がって何かを意味し「表象」するのではなく、欲望の流れそのものにほかならない「生産」をひたすら行うマシン、すなわち「欲望機械」として定義し直される のである。
 ドゥルーズとガタリがラカニスムにつきつけたこうしたアンチテーゼに、ラカンとその弟子たちはどのように答えたのだろうか。残念ながら、『アンチ・オイ ディプス』の著者たちと精神分析家たちのあいだには、対話ではなく、断絶だけが残されたように見える。ラカンはこの著作にたいして口を閉ざし、『アンチ・ オイディプス』出版以前には大いに賞賛していたドゥルーズの名すら二度と口にすることがなかった。ラカン周辺の分析家の多くは、「欲望機械」や「スキゾ分 析」をほとんど真面目に受け取らず、反対に、精神分析家としてのガタリの実践を中傷するキャンペーンをはった。精神分析はこうして『アンチ・オイディプ ス』にいわば出会い損なったのである。この状況は、今日でも大きく改善されたとはいいがたい。
 本シンポジウムがめざすのは、それゆえ、この空白を僅かでも埋めることにほかならない。立てられるべき問いは無数にある。1950年代にラカンが構築し た「欲望の弁証法」の理論は、「欲望機械」の概念とまったく両立不可能なのだろうか。欲望機械の概念的ルーツがフロイトの「部分対象」とラカンの「対象 a」にあることは明らかだが、ドゥルーズとガタリが『アンチ・オイディプス』に取り組むのと同じ時期に、ラカンがこの「対象a」をめぐって進めていた新た な理論構築の局面は、『アンチ・オイディプス』といかなる関係をもつのだろうか。ラカンの最も忠実な「生徒」のひとりだったガタリが、ラカンに明白に離反 する著作を世に送り出すに至ったのは、いかなる理由によるのだろうか。そもそも、『アンチ・オイディプス』を共同執筆したふたり、我が国ではしばしば 「ドゥルーズ=ガタリ」などと表記されてきたふたりは、同書に表された思考をすみずみまで共有していたのだろうか。そして、資本主義と家族/エディプスコ ンプレクスの関係を内在的に捉える鋭利な視点をもたらした『アンチ・オイディプス』から、今日の精神分析はいかなる教えを汲みとるべきだろうか。
 本シンポジウムでは、これらの問いに一線の研究者とともに臨み、ドゥルーズ、ガタリ、ラカンそれぞれの立場が絡み合う対話と議論を試みる。これは、逝去 20周年を迎えたジル・ドゥルーズへの、私たちの協会からのオマージュでもある。


-提題概要-

ガタリ=ドゥルーズ─『アンチ・オイディプス草稿』をめ ぐって
佐藤嘉幸(筑波大学)


 本発表は、フェリックス・ガタリがジル・ドゥルーズとの共同作業『アンチ・オイディプス』のために準備した『アンチ・オイディプス草稿』を読解し、ガタ リ、そしてドゥルーズ=ガタリに固有な「分裂分析[schizo-analyse]」の試みの意味を考察する。その考察を通じて私たちは、「分裂分析」と いうガタリの理論が、ラカン的な構造主義的精神分析理論へのオルタナティヴとして、「機械」、「横断性」といった概念を導入しつつ、(1)権力の内面化に よって確立される超越論的主体を廃棄し、それに代わるまったく新たな集団的主体性を生産すること、(2)さらにはそうした集団的主体性の生産に基づいて、 ヒエラルキー的支配なき横断的社会を実現すること(「切断」としての社会革命)、を探求するものであったことを明らかにする。また、その過程で私たちは、 ガタリがドゥルーズに影響されつつ書いた論考「機械と構造」、そしてドゥルーズがガタリに影響を与えることになる『差異と反復』、『意味の論理学』をも分 析対象とし、ガタリとドゥルーズの相互的影響関係を明らかにすることを試みる。

『差異と反復』と『アンチ・オイディプス』における欲望の 概念
財津 理(法政大学)


 『差異と反復』における欲望(désir)の概念を明確化するに際して、いったん、ドゥルーズが言及している二つの著作、すなわちラカンの「治療の指導 とその能力の諸原則」(邦訳『エクリⅢ』所収)における欲望とフロイトの『科学的心理学草稿』における願望(Wunsch)を参照し、さらに『マゾッホと サド』において「死の欲動」から区別される「死の本能」の意味(超越論的原理)を考察し、こうして『差異と反復』における部分欲動と部分対象のドゥルーズ による解釈を検討しながら、「無意識は欲望する」という記述における欲望(désir)の概念の特徴を際立たせる。『アンチ・オイディプス』における欲望 の概念に関しては、ラカンの「存在欠如(manque à être)」やプラトンにおける欲望の概念と比較しながら、「欲望には何も欠如していない」あるいは「欲望する生産」という表現の意味を考える。ところ で、アルトーの器官なき身体は、すでに『意味の論理学』でラカンの寸断された身体との対比で捉えられており、『アンチ・オイディプス』においては、欲望す る生産は、器官なき身体との対比で、生産の生産、つまり欲望する機械だとされている。ここから、『アンチ・オイディプス』における欲望の概念の特徴を明確 化し、『差異と反復』における欲望の概念と、『アンチ・オイディプス』における欲望の概念との連続性と差異を考察する。

ラカンにおける「欲望」とその「対象」:
「エディプス」的布置とその再編成
原 和之(東京大学)


 欲望についてその「弁証法」を考えるということ、それは欲望を主体と〈他者〉の「言語」的な関係において考えるということであり、「知」との関係におい て考えるということである。こうした観点からラカンが1950年代に前エディプス期とエディプス期を総合した「エディプス(l’Œdipe)」の再定式化 を試みた際、まず問題となった「対象」とは、主体が知ることを欲望する〈他者〉の欲望の対象、すなわちファルスであり、想像的なファルス(φ)であった。 ファルス(φ)を主体が〈他者〉を介して解決しようとする問題のいわば「未知数=x」として考えるこの構想を出発点として、ラカンは「エディプス」をこの xの探究の過程として捉え直そうとするわけだが、この「エディプス」との関わりにおいて「対象」には複数の水準が区別される。まず「エディプス」の出口に おいて「父の名」の効果として成立する、将来的な贈与の対象としての象徴的なファルス(Φ)の水準。さらに「エディプス」をめぐる議論のなかで、ラカンは 人間の欲望に、身体的な満足の対象に向けられた「欲求」、〈他者〉(の欲望)を対象とする「要求」、そしてそのいずれとも異なる狭義の「欲望」の三水準を 区別するが、とりわけこの狭義の「欲望」との関わりにおいて、「対象a」の水準が主題化される。この「対象a」はまず、「エディプス」がその最外延を規定 しているような、欲望の言語的=知的な分節化の「外」に位置するものとして位置づけられたわけだが、のちにラカンがいっそう根源的な地点から、すなわちそ もそも欲望する〈他者〉を介して解決することが目指されていた問題である、〈身体〉ないし「欲動」の水準から出発しつつその理論を再編しようとするにあた り、その議論の中心を占めるようになる。本提題では、こうしたラカンにおける「欲望」とその「対象」の問題の「エディプス」的な布置、および後期ラカンに おけるその再編成について、一定の見通しを得ることを目指す。


第15回大会プログラム(PDFファイル43KB)