第24回大会のお知らせ
開催日時:2024年12月22日(日)10:00〜18:00
場所:東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1(Zoomを利用したハイフレックス形式:研究発表用ルーム、シンポジウム用ルーム)
参加費:無料
プログラム
1. 研究発表(発表時間30分 質疑応答15分)10:00~11:45
オンライン参加:Zoomルーム
①10:00~10:45|司会:牧瀬英幹(中部大学)
佐藤朋子(金沢大学)「カントを読むフロイト——ロンドンのフロイト博物館での調査、またその結果を参照した二、三の仮説」
②11:00~11:45|司会:原和之(東京大学)
河野智子(神奈川工科大学)「美のメタモルフォーシス——ポーの「ライジーア」に読む献身愛の精神分析的効果」
2. 昼休み 11:45~13:30
3. 総会 13:30~14:15
①議長選出
②会務報告 論集刊行に関する報告など
③決算(2023/2024年度)審議
④予算(2024/2025年度)審議
⑤次年度活動計画について
4.大会シンポジウム 14:30~18:00
「Message in the bottle : 『エクリ』を読み継ぐために」
オンライン参加:Zoomルーム
司会:原和之(東京大学)
提題:上尾真道(広島市立大学)、片岡一竹(早稲田大学博士後期課程)、河野一紀(梅花女子大学)
2023年5月から2024年11月にかけて、日本ラカン協会ではジャック・ラカンの主著『エクリ』をめぐる連続セミナーを企画実施した。再来年の2026年には刊行後60周年を迎えるこのテクストだが、その全容はいまなお捉え難く、英米圏でも近年四巻本の『Reading Lacan’s Ecrits』(Routledge, 2019-2024)が刊行されるなど、再読の機運が高まっている。今回セミナーを実施するにあたり、所収論文の一つ一つを紹介し解説するという、異なった観点から読み直しえたことは、われわれ自身にとってもこのテクストの奥行きをあらためて確認し、その孕む問題や射程を再考する機会となった。
いま、『エクリ』の集中的な再読は、われわれに何をもたらしうるのか。本シンポジウムではこの点を、連続セミナーの枠内で、あるいはそれぞれの研究の中で、そうした再読を経験した三人の提題者を迎え共に考えたい。提題者には、それぞれ『エクリ』所収の1930~40年代、50年代、60年代のテクストを中心に、それらに取り組む中で得られた気づきや新たに見出した問題などについて、ここでは論文単位の解説という縛りなしに、自由に論じていただく。そのうえで、それらの議論を起点として、すでに20世紀フランス思想の古典の一つとなっているこのテクストを、さらに未来に読み継ぐ手がかりを探ることを目指したい。
河野一紀「1953年以前のラカンとフロイトの再解釈」
片岡一竹「《他者》の破壊とそのマゾヒズム——欲望の弁証法における強迫神経症の位置づけ」
上尾真道「科学者の運命はエディプス神話に書き込まれるか——ラカンの〈科学〉論再訪」
概要
研究発表
佐藤朋子「カントを読むフロイト——ロンドンのフロイト博物館での調査、またその結果を参照した二、三の仮説」
2024年9月にロンドンのフロイト博物館で発表者が行った、フロイトの蔵書に残された書き込みの調査について、背景、目的、事前の準備、実施の手順と結果等を報告する。また調査の結果とフロイトの著作や他の公刊されている資料を関連づけることをつうじて、学問としての地位を心理学に拒否したカントに対するさまざまな反応や反論という文脈のなかでフロイトの試みがもちうる意義について、ジョージ・マカーリの『心の革命』における粗描よりも詳細に論じることの重要性を示し、さらなる研究に向けた仮説を二、三提示することを試みる。
河野智子「美のメタモルフォーシス——ポーの「ライジーア」に読む献身愛の精神分析的効果」
ポーの「ライジーア」には、生死の境界で美のイマージュが変身する、美のメタモルフォーシスが見られる。ライジーアが死後に別の女性に転身することは、ラカンが美の機能を見出すアンティゴネが、アーテーの彼岸に立たされたとき、苦悩の鳴き声を放つ鳥のイマージュになることと、その原理を同じくする。本発表では、ポーの物語を貫くように描かれる、ライジーアが語り手に示す自己犠牲的な献身愛をたどりながら、最後に強烈な輝きを放って出現するライジーアのイマージュにラカンが定義する美の機能を探り、語りの導きで起こる美のメタモルフォーシスがもたらす精神分析効果を論じる。
シンポジウム提題
河野一紀「1953年以前のラカンとフロイトの再解釈」
『エクリ』の第二部に収められた諸論文へと読者を導き入れるにあたって、ラカンは「我々の来歴について」というテクストのなかで、それらの諸論文が「我々が無意識をランガージュに組み込むことを予期していたことになるだろう」と述べている。しかしながら、第二部の諸論文では、無意識についての直接的な議論はほぼなく、無意識という語そのものも(「犯罪学への理論的導入」(1950)を除けば)ほとんど出てこない。むしろ、よく知られているように、そこでの主題は、ナルシシズムと同一化に基づいた自我をめぐる議論にあった。となると、我々はラカンの言葉をどのように理解すればよいのだろうか。もちろん、事後的に見れば、当時の諸論文に後の象徴界の概念化につながる諸論点を見出すことは難しくはないが、そうしたやり方は、ラカン自身が警告しているように、後から導き出されたものを「既にそこに」あったものとして見出すという思い違いに陥りかねない。ところで、ラカンは自らの「精神分析への参入をしるしづける諸論文」への導入にあたって、「パラノイア的認識」という1932年の学位論文から導き出された考えを提示していた。そこで本論では、学位論文の延長線上に、『エクリ』第二部の諸論文を位置づけながら、「1930-40年代にラカンがフロイトをどのように参照し、再解釈していったか」という問いを考えてみたい。
片岡一竹「《他者》の破壊とそのマゾヒズム——欲望の弁証法における強迫神経症の位置づけ」
「治療の⽅向づけ」「ファルスの意味作⽤」「主体の転覆」など、セミネール4〜6巻と並⾏して執筆された1950年代後半の諸論⽂を中⼼に取り上げ、ラカンの強迫神経症論について検討する。精神分析において⾒られる種々の強迫的現象に関するラカンの記述を単に収集し列挙するには⽌まらず、この時期にラカンが「欲望のグラフ」の形成を通じて練り上げていた欲望論の中に強迫神経症を位置づけることで、この疾病カテゴリーの根幹を成すものが何かを明らかにする。欲望の換喩的性格――あくまで「存在⽋如の」換喩である限りの換喩――と欲望の根源的マゾヒズム性――欲望の不満⾜それ⾃体の享楽――に対する主体的応答の⼀つの形態として強迫神経症的主体性を規定する。強迫者の欲望がいかに、グラフにおいてS(Ⱥ)と表される去勢を前提とし/退⾏し/送り返されているのか。その欲望生活を形成する本質的な両義性を明らかにし、分析治療に可能な介⼊の様態を考察することが本発表の目的である。
上尾真道「科学者の運命はエディプス神話に書き込まれるか——ラカンの〈科学〉論再訪」
一九六六年の『エクリ』の出版は、巷間のいわゆる「構造主義」ブームによって熱狂的に迎えられたことが知られている。この大著の最後を飾る「科学と真理」は、収録テクスト中もっとも新しく、一九六五年一二月のセミネールを書き起こしたものであるが、そこではまさに「構造主義」が〈科学〉の条件という観点から議論されている。一方、こうした「構造」と〈科学〉の関係への関心は、そもそも一九五五年頃のラカンの取り組みにおいて顕著だったものであり(cf.セミネール二巻)、その断片が「「盗まれた手紙」のセミネール」という形で『エクリ』の冒頭を飾ることを考えれば、『エクリ』とはまさにラカンの〈科学〉論によって、ひとつの円環を閉じる書物であるとさえ言えるだろう。それではこの二つの時代のあいだで、ラカンの〈科学〉論は、どのような点で一貫し、どのような点で変化してきたのか。本発表はこの問いについて、ラカンが関心を寄せた「サイバネティクス」や「推測科学」といった主題群を思想史的に検討しつつ、接近することを試みたい。
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