研究会

*臨床研究会のご案内

 日本ラカン協会は令和3年10月より、臨床研究会を発足させました。実際の症例にラカン理論を適用する経験を積み重ねることで、日本の精神分析および精神科・心理臨床におけるラカン派的オリエンテーションの普及と定着に寄与することをめざします。

 本研究会の運用は、以下の通りです。

①毎年10月スタート。10月、12月、2月、4月、6月の日曜日、年間計5回、各回15時~17時30分に実施する。毎年会員、もしくは非会員(会員1名の推薦が必要)から、事前に先着10名の参加者を募り、翌年6月に解散。10名に達するまで、募集は継続される。症例発表は、参加者の中から毎回1名ずつが担当する。ラカン協会の理事は自由参加で、症例発表も可能である。

②参加資格:必ずしも精神科・心理臨床や精神分析実践に携わっている必要はないが、研究会において知り得た個人情報に対する守秘義務が、各参加者に課される。本研究会に参加申込をした段階で、この守秘義務に同意したものと見なす。会期途中で守秘義務違反が発覚した場合、当人の参加資格はただちに取り消される。

③小林心療内科・精神分析室(旧大橋クリニック)から、ホストの小林理事、牧瀬理事がZoom配信する。コロナ禍の終息とともに、今後現地受け入れ可能人数は増える予定。コントローラー(スーパーヴァイザー)は小林理事。随時ゲスト・コントローラー(令和7年2月にはÉcole de la cause freudienneのÉric Laurent氏)も招聘する予定である。

*過去の研究会

●対談:『精神分析の再発明』(工藤顕太著、岩波書店、2021)をめぐって
日時:2022年1月23日(日) 14時~16時30分
方式:対面とオンラインを組み合わせたハイフレックス方式
場所:成蹊大学・6号館601会議室ABC (JR中央線・吉祥寺駅よりバスまたは徒歩)

   または

https://u-tokyo-ac-jp.zoom.us/meeting/register/tZcrf-mhrjgtH9QIoqY0zHGoX6brJXokIwne

(上記から事前登録ののち、登録したメールアドレスに接続情報が送信されます。)

成蹊大学の会場へのアクセスは下記をご参照ください。

  https://www.seikei.ac.jp/university/aboutus/accessmap.html
  https://www.seikei.ac.jp/university/aboutus/campus_uni/

登壇者:
工藤顕太(京都大学人文科学研究所・日本学術振興会特別研究員PD)
鹿野祐嗣(神戸大学大学院国際文化学研究科)

登壇者プロフィール:
工藤顕太(くどうけんた)
1989年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、日本学術振興会特別研究員PD(京都大学人文科学研究所)。早稲田大学、群馬県立女子大学にて非常勤講師。著書に『精神分析の再発明 フロイトの神話、ラカンの闘争』(岩波書店、2021年)、『ラカンと哲学者たち』(亜紀書房、2021年)。

鹿野祐嗣(しかのゆうじ)
1988年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程指導修了退学(博士)。現在、神戸大学大学院国際文化学研究科助教。著書に、『ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究――出来事、運命愛、そして永久革命――』(岩波書店、2020年)、『ドゥルーズと革命の思想』(編著、以文社、2022年)がある。

※当日は、『精神分析の再発明』に加え、対談者それぞれの新著:工藤顕太著『ラカンと哲学者たち』(亜紀書房、2021)、及び、鹿野祐嗣編著『ドゥルーズと革命の思想』(以文社、2022)も話題に上ります。どうぞお楽しみに。

●井上卓也氏 学位論文報告会
・日時:11月21日(日曜日)17時〜19時
・場所:オンライン
・発表者:井上卓也(日本学術振興会特別研究員(PD))
・発表タイトル:主体の歴史と精神分析技法の成立:初期精神分析史の再検討にむけて
・共催:日本ラカン協会・東京大学大学院総合文化研究科原和之研究室

【発表概要】
主体の歴史と精神分析技法の成立:初期精神分析史の再検討にむけて
井上卓也
 フロイトは1895年の『ヒステリー研究』において、自らが提示する症例のテクストに学問的慣例から逸脱する特徴を認めている。すなわち、通常の病歴にはみられない「心的過程の詳細な描写」に踏み込むその記述は、文学的なフィクションに接近し、あたかも「小説のように読める」。他方、まさに「科学がもつ真剣みという刻印を欠いている」ようにおもわれるそのような主体の苦難の歴史(Leidensgeschichte)こそ、「局所診断」や「電気反応」などよりもはるかにヒステリーの理解に寄与するというのである。だが、精神分析が一見して客観性とは対極にあるこのような対象を扱うものだとすれば、19世紀末という時代において、その技法はいかにして認識的な価値と治療的な意義を備えた新たな科学的方法として提示されえたのだろうか。ましてフロイト自身の出自である当時の神経病理学が、もっぱら病変を神経系のうちに局在化し、客体化することに力を傾注していたのだとすれば?
 本発表では、1915年までの技法史を主題とする発表者の博士論文(De la catharsis au transfert : l’histoire du sujet et la formation de la technique analytique)の内容を補完しながら、このような問いに1)その理論的な背景および2)実践のより具体的なディスポジティフの展開、という両面から答えることを試みる。考察の出発点となるのは、かつてジャン・スタロビンスキが「反応の病理学」と名付けた、出来事や環境に対する主体の「反応」に精神疾患の原因をみてとる精神病理学的思想の系譜である。シャルコーの外傷ヒステリー研究に「反応の病理学」の大きな転換点を見出すグラディス・スウェインの見立てにしたがって、ここではまずシャルコー以降のフランス・ドイツにおける議論の展開を追いながら、複数の出来事による症状の規定、という『ヒステリー研究』の病因論を可能にした文脈を再構成する。さらに、一連の過去の経験が実際に症状形成に関与したことを検証するうえで、独自の「証拠」の体制が動員されたことを同時代の症例研究との比較から明らかにする。
 個人史の細部に分け入ろうとするこのような傾向については、初期の分析家たちのあいだでも評価が分かれることになるだろう。たとえば、幼年期の性的体験や空想の再構成を求めてしだいに長期化していくフロイトの治療に対し、シュテーケルは表面的な素材の象徴解釈を多用する短期間治療に傾いていく。またユングやプフィスターらスイスの分析家たちは、幼年期の性的体験の想起をリビードの退行によるたんなる遡行的な投影とみなしてフロイトの「歴史的アプローチ」に異を唱え、リビードを現実の課題に適応させる「教育的アプローチ」を掲げることとなる。ここでは1910年代のフロイトの技法的テクストをその「歴史的アプローチ」に最適化されたもの、すなわち転移を通じて過去の諸関係を自発的に浮上させ、患者の「確信」を生み出すための条件を示したものとして、当時の乱立する技法との関わりから読み直すことを提案する。

●上尾真道『真理とパトス 1960年代フランス思想と精神分析』合評会
於:東京大学駒場キャンパス
2017年6月23日(金)
 上尾真道著『ラカン 真理とパトス 1960年代フランス思想と精神分析』(人文書院、2017年)の合評会が、6月23日に東京大学駒場キャンパスにて催された。著者の上尾真道氏のほか、コメンテーターとして福田大輔氏(青山学院大学)、十川幸司氏(十川精神分析オフィス)、合田正人氏(明治大学)が登壇された。司会進行は原和之氏(東京大学)が務めた。合評会ではまず、コメンテーターからの質問とコメントが提示され、上尾氏が応答する形で進行した。それに続いて、司会者からのコメントとそれに対する上尾氏の応答と、フロアとの質疑応答が行なわれた。
 はじめに福田氏がとくに同書の第1章と6章、7章に関してコメントを行なった。まず福田氏は、ミレールやルクレールといったラカンの弟子のプレゼンスが強いために、ラカン自身の思想を見出すことがしばしば困難であるように思われる60年代のセミネールを対象として、ラカンの思想をその形成過程も含めて考察した稀有な研究として同書を評価した。具体的には「パス」や「性別化」をめぐる6章、7章の議論などである。福田氏からの質問はこの6章、7章と関連したものである。同書の第1章「戦後フランスの心‐政治(プシ・ポリティーク)」では国際精神分析学会(IPA)との対立に代表されるような、ラカン思想の形成に関わる舞台に関する詳細な記述がなされているが、福田氏はとりわけ「67年の提案」における「IPAにはナチスドイツの犠牲者となった分析家がいない」というラカンの発言が6章、7章の議論と通ずるのではないかと指摘する。そして特にIPAとユダヤ教との関係について、上尾氏がどのように考えているのかという点に関して質問した。
 続いて十川氏が、同書の副題に「60年代フランス思想」という限定があるが、実際には70年代のテクストも扱っており、より広範にラカン思想の全体を扱った書籍であると考えられると指摘した。また二次文献以上に、ラカンの原典を重視し、一貫した議論を導き出している点で十川氏は同書を高く評価する。具体的には第5章のマゾヒズムをめぐる議論、第7章のララングをめぐる議論などが該当する。そして、一般に分析家は患者との関係で理論を構築していくが、ラカンの場合は60年代の思想的状況との関係で理論が構築されているのだろうとコメントした。
 質問としては、十川氏はまず、上尾氏の議論はラカンの思想を「成功したもの」として扱っているが、精神分析とはむしろ失敗を契機として理論を構築する営みなのではないか、と指摘した。十川氏によれば、「成功している」という読みはある種の予定調和をラカンの活動に持ち込む読解となる可能性がある。次に、同書の議論の中核には「分析家の欲望」の問題があるように思われるが、同書のなかにこの概念への言及は少ない。十川氏によれば、この概念は分析経験のなかで獲得され、分析家がそれを生きることになるパフォーマティブなものであり、客観的な規定の難しい概念である。同書には分析家の身分をめぐる議論も多いが、十川氏は、分析家ではない上尾氏はどのようにしてラカンの議論を引き受け、それがどのようにパフォーマティブに作用したのかと問題を提起した。
 合田氏からは、大きくわけて4つの点に関する質問とコメントがあった。1点目は、同書の複数箇所で言及されるゴミや屑の問題に関するものである。「ゴミとは何で、誰がゴミをゴミとして言うのか」や、ゴミと資本主義の関係性に関しては剰余価値の観点から「ラカンにおいて交換価値と使用価値のギャップはあるのか」、「ゴミは実態変化的なものか否か」等の質問が寄せられた。2点目は第5章5節におけるラカンの「闇の神」の議論において触れられるスピノザの「神への知的愛」に関するものである。とくに「処方箋としてのスピノザはあきらめられた」(210頁)と言うことが本当にできるのか否か、同時期のバディウをはじめとした思想家によるスピノザをめぐる議論はどうなのかという問題が提起された。3点目はラカンのデカルト、とくに「騙さない〈他者〉を論じるうえでの上尾氏のスタンスについてである。そして4点目としては、とても難しい問題だという留保のうえで「結局ラカンは他者の神格化に抵抗できたのか」、「キリスト的な身体と言説の問題のなかにむしろ留まっているのか、そしてその問題が資本主義の問題とどう絡んでくるのか」という疑問が寄せられた。
 以上のコメント・質問にたいして上尾氏からは、テーマ別に以下のような応答があった。まず精神分析におけるユダヤ性の問題に関しては、ラカンがユダヤをどう扱いかけたかという話をするにはセミネールⅩ巻の「声」の議論とユダヤの関連や、セミネールⅪ巻が参考になるという応答があった。これに関連してキリスト教については、ラカンのテクストにおいてはキリスト教の伝統と、とくにセミネールのⅩⅨ巻・ⅩⅩ巻における新プラトン主義に遡る議論が結びついていることが指摘されたうえで、『テレヴィジオン』における「屑」の人物像としての「聖人」について説明がなされた。
 同書がラカンの成功譚のようだという指摘に関しては、73-74年で同書の記述を止めたのは『アンコール』が限界であるという上尾氏の考察がいくつかの理由とともに示された。なかでも同時期の歴史的な転換として、パリ第8大学の精神分析学派の組織化し直す契機とともに、より大きな視点では資本主義の転換として金本位制のモデルの変化が指摘された。
 そして合田氏が指摘したスピノザに関しては「あきらめた」という表現はⅪ巻に限定した読解であることが説明されたうえで、ミレールたちのいう「きれいなスピノザ」のようなスピノジスムとラカンのスピノザとは、なにかが違うのではないかという上尾氏の迷いが率直に示された。また、コギトの問題については60年代思想がすべてコギトの注釈といいうるぐらいに大きな問いであるという留保のうえで、セミネールⅨ巻における「発話行為におけるコギト」が先駆け的な議論であったことが指摘された。しかし他方で、上尾氏は発話行為を成功させるために「だまさない〈他者〉」がいるという立論に関しては、べつの視点からの考え方をしてみる余地があることも示された。
 最後に、分析家の欲望の問題を分析家でない上尾氏がどのように引き受けたのか、そして同書の執筆は上尾氏の実存にどう関わっているのかという質問に対する応答がなされた。上尾氏は分析家ではなくラカンのテクストしか読まない自身の特殊な立場について、「ラカンの理論を読んでそれをなにかの役に立てる必要がない立場」であるという。そして、この立場において直接的にラカンと向き合うためのひとつのスタンスとして、同書の歴史的な記述の方式が選択されていることが説明された。
 つづく質疑のなかでは、まず十川氏と合田氏からそれぞれ「身体的他者」という用語の使用や「屑」についての追加的な質問とそれに対する応答が行なわれた。その後、司会者の原氏からもラカンにおける言語の存在論的なステータスや、ラカンと政治的な動向の関連性、あるいはラカンが革命のロジックをパス想定の段階から組み込んでいたと言えるかどうかについて、上尾氏に意見が求められた。
 登壇者による質疑応答が終了した後はおよそ1時間にわたって、フロアとの活発な議論が展開された。主な論点としては、分析におけるマゾヒズムとマゾッホのマゾヒズムの相違点についての質問や、「テクスト性の知」に関連して「無知だと何が悪いのか」という点について質問が寄せられたほか、同書において「現実界」の問題が前面に出てこない点や、ラカンの「一者」とプロティノス的な「一者」の相違点についても問題が提起された。議論は尽きず、合評会は盛況のうちに終了した。(山本千尋・内藤慧 記)