日本ラカン協会研究会第1回(報告)

日時:4月21日(金) 19時から21時
場所:東京大学駒場キャンパス 18号館4階コラボレーションルーム3
発表者:佐藤朋子
発表タイトル:他所からの記憶――フロイト以後の『オイディプス王』読解、あるいは応用精神分析の可能性


日本ラカン協会では、若森栄樹前理事長のもとでラカンのテクストを原文で読む読書会がこれまで長年に渡って行われてきましたが、それが昨年9月にいったん休止となってのち、理事会では協会の定期的な研究活動を、どのようなかたちで展開してゆくかが検討されてきました。そうしたなかで、従来と異なった開催形態を模索するという趣旨で、今回の「日本ラカン協会研究会」の企画が承認されました。この「協会研究会」は、連続して聴講しなくても内容理解ができるよう、一回ごとに完結する研究発表、合評会等のかたちをとり、平日(さしあたり金曜日)の夜の時間帯に開催されます。1回目の今回は、冒頭で原理事長が今回企画、および2017年の年次テーマ「今日のオイディプス」の趣旨説明を行い、出席者各人が自身の関心を簡単に述べてのち、佐藤朋子氏の発表に入りました。

佐藤氏はまず、オイディプスへの精神分析の参照、およびそれをめぐる思想的遺産をどのように今日どのように生かすか、という問題に取り組むにあたりソフォクレスの悲劇『オイディプス王』へのフロイトによる参照に立ち戻って考える、という問題意識を明確にした上で、フロイトによる劇の要約の特徴、とりわけどのような点が脱落し、どのような点が強調されているのかを示し、この作品が我々に与える「感動」にその重要性が求められている点を確認しました。

こうした作品に対する態度は、佐藤氏がアプローチにもとづいて独自に提案する「応用精神分析」の4カテゴリー――(1)登場人物の分析、(2)作者の分析、(3)読者・聴衆の分析、(4)象徴の同定――のうちの(3)に対応しますが、佐藤氏はさらに十川幸司氏の議論(『精神分析』)を参照しつつ、この(3)が作品への「転移」の分析であり、「感動を言葉に置き換える行為」が主体の「内的な変化」を引き起こすプロセスを対象としている点でとりわけ重要であると指摘します(なお十川氏がそうしたアプローチの事例として示しているのは、フロイトの「ミケランジェロのモーセ像」でした)。

ただ、ランシエールが『美学的無意識』で指摘しているとおり、そうした「感動」は必ずしも自明なものではありません。フランスのいわゆる古典主義の時代、ソフォクレスの劇作品はそのままの形では受け入れられず、コルネイユやヴォルテールがその困難な翻案を試みることになりました。ランシエールはここから、芸術の思考の体制の歴史的変動を結論するわけですが、佐藤氏は議論をそうしたフーコー的なパースペクティヴへとただちに開くかわりに、そこでは「無意識」より「エス」を問題にするべきではないかという立木康介氏の指摘(『狂気の愛、狂女への愛、狂気のなかの愛』)を踏まえつつ、むしろフロイトの精神分析に内在的な概念や術語――「幻想」や「情動」――を用いて、そうした「感動」をより詳細に分析することの必要性を主張して発表を締めくくりました。

オイディプスをめぐるこれまでの議論の特徴として、たとえそれが批判的考察であったとしても、オイディプスが家族についての真理を伝える物語として読むこと自体は問題とされず、その批判が家族の「浅い」「不十分な」「ゆがめられた」理解に向けられており、これを継承することが問題となる場合には、あくまで「真の」「より深い」「より包括的な」家族の姿を示すことが目指される傾向にあった(そして、その傾向は必然的に、応用精神分析独自の意義を否定することに通じる)、という指摘が発表のなかでありましたが、この点は重要と思われます。そうした抜きがたい「家族主義」に対して距離を取る仕方として、『オイディプス王』への参照をあらためて一つの「応用精神分析」として位置づけ、それがフロイトを、そして我々を揺り動かす力を持つのは、果たしてフロイトが言うように父を殺し母を娶るドラマであるからなのか、あるいは、それに加えて、他にもその理由をもとめることができるのかと問うことは、オイディプスの問い直しにあたり有力な出発点となりうるように思われました。

(KH)