第27回ワークショップ

日本ラカン協 会第27回ワークショップ

今日におけるラカン派精神分析実践

 日時: 2019年7月7日(日)14 : 00〜18: 00
 場所: 大橋 クリニック
 (〒464-0075愛知県名古屋市千種区内山3-25-6 千種ターミナルビル3F)
※新幹線でお越しの方:JR名古屋駅でJR中央線(多治見 中津川 方面)に乗り換えて4つめ の千種駅で下車、地上改札口を出て正面にある茶色の「IKKO千種ターミナルビル」の3階
 参加費:無料
 提題者:白石 潔 氏(のぞえ総合心療病院)
      平野 信 理事(こころの分析室/北小田原病院)
  司会: 小林 芳樹 理事(大橋クリニック副院長)

「師は何かによって沈黙を破ります。それは嘲罵、足蹴など、何でも構いません。「禅」の技法によれば、仏教の師はこのようにして意味の探求を行ないます。 自身の問いの答えを出すのは弟子自身の仕事です。師は「説教壇」の上から出来合いの学問を教えるのではありません。師は、弟子が答えを見出す正にその時に 答えを与えます。」
 この言葉によって1953年1月パリ・サンタンヌ病院において、ジャック・ラカンによる以降30年近くに及ぶセミネールが開講された。ラカンは国際精神 分析協会(以下IPA)の精神分析家たちのように、セッションの時間を構造化するのではなく、分析主体(ラカン派において精神分析家との対話者は、患者や クライアントではなく、分析主体と呼ばれる。精神分析を受けるという行為は、受動的ではなく、主体的な行為である、というラカンの思想による)が「答えを 見出す正にその時に」毎回のセッションを終了した。このように変動時間制を採用し、対象関係や転移・逆転移の二者関係ではなく三者関係を扱うラカンは、 1963年にIPAから離れて、翌年自らの学派l’École freudienne de Paris(以下EFP)を設立した。
 彼のEFP設立の狙いは、精神分析を理論や臨床としてではなく、我々の精神生活を決定する客観的条件として示すこと、西洋的思考に精神分析を課すこと、 であった。
 ラカンは精神分析実践において、分析主体がその存在の行き詰まりに根元から出口を開け、己の自我の境界をさらに大きな差異の方向へ超越し、各人固有の存 在の起点が析出する場合と、主に治療的成果によって評価される場合の分水嶺が、分析セッションの進行過程で出現することを見出していた。そして前者を純粋 精神分析、後者を応用精神分析と名付けた。IPAにおいては精神分析家養成のための教育分析か、あるいは治療のための精神分析なのかが、分析開始の段階で すでに決められている構造とは対照的である。EFPの設立精神に依り、ラカンは当初、応用精神分析よりも純粋精神分析を重視する傾向にあり、1967年に 学派分析家認定制度「パス」を創設したが、1977年にパリ・サンタンヌ病院と共働で、医療への応用精神分析部門セクション・クリニックも設立した。

 本ワークショップでは、現在日本において実際にラカン派精神分析家として活躍されている2名を提題者としてお迎えし、各々の精神分析実践の体験を証言し ていただき、参加者とともに議論を深めて行く。
 まず一人目は、現在福岡の「のぞえ総合心療病院」の外来リハビリテーション・こども診療部長で、福岡市内で精神分析を個人開業しておられる、白石潔氏で ある。白石氏は、東京大学医学部在学中の1975年に渡仏して1986年に帰国するまで、ブザンソン大学医学部 精神科専門医過程を経て、パリ・サンタン ヌ病院などフランス国内の様々な病院で主に児童精神科医として仕事をするとともに、1977年から、先に説明したセクション・クリニックに登録して、ラカ ン派応用精神分析の領域でも経験を積んでこられた。特筆すべきは、白石氏が留学された1970年代後半〜80年代前半は、EFPの解散(1980年1 月)、ジャック=アラン・ミレールらの尽力によるEFPの法廷相続学派l’École de la cause freudienne(以下ECF 初代会長はラカン)の設立(1981年1月)、ラカンの死(1981年9月)、というラカン学派における大きな節目の 時期にあたる、ということである。そして何よりこの激動の歴史を目の当たりにされた白石氏は、ラカン派純粋精神分析に分析主体として、究極まで取り組まれ た方である。
 二人目は平野信氏である。佐賀医科大学卒業後、福岡大学医学部精神医学教室に入局され、IPA日本支部である日本精神分析協会会長であった西園昌久教 授、他数名の精神分析家による指導を受け、同時に福岡精神分析研究会、福岡精神分析インスティテュートにて研鑽を積まれた。しかし次第にIPAの理論や臨 床実践に疑問を持つようになり、上記の白石氏との出会いによって、ラカン派精神分析に傾倒していき、2000年からオーストラリアのメルボルンでの留学を 開始された。現地では、ラカン派精神分析組織において研修すると同時に、Deakin大学大学院にてラッセル・グリッグに指導を受けて、精神分析研究に従 事された。個人分析の終了と博士号取得を契機に2007年に帰国。その後、北小田原病院勤務の傍ら、Lacan Circle of Australiaの会員として、現在横浜市内で精神分析を個人開業されている。1981年にECF設立に関わったミレール率いる学派は、その後南米や ヨーロッパを中心に浸透していき、1992年にこれらの統括組織としてAssociation Mondiale de Psychanalyse(以下AMP)が立ち上げられ、New Lacanian School(ロンドンを拠点とした英語圏のラカン=ミレール学派統括組織 以下NLS)もAMPの傘下にあるが、平野氏が師事したラッセル・グリッグ は、このNLSにおける主要メンバーである。白石氏との出会いによって、IPAからラカン派精神分析に転向し、オーストラリア留学へと人生の舵を切った平 野氏の足跡は、とりわけフランス語やラカンに馴染みのない日本の心理士や精神科医たちにとって福音となるだろう。
小林芳樹


「大文字他者の真の意味での臨床的・倫理的が、パスの論理・構造的な必然性を生み出していかざるを得ない」  白石潔(のぞえ総合心療病院)

 ラカン自身が学派分析家を任命する未だに日本語化できない「パス」という、「分析家」としての登竜門に対して、構造的には矛盾のない論理的な「分析家養 成の構造」を彼は考慮に入れていたにもかかわらず、「パスの当日、待合室から投身自殺が起きた」ような、私が知りようのない様々な状況があったという「記 述や語り伝え」の時代を体験した。
 私は、フランスの国立大学で精神科医としての専門課程を専攻し、ドルギルが中心となって、オクターブとモード・マノー二夫妻も参加していた、不思議なこ とに理論と実践を中心にした初期の「フロイド研究・再考センター」が、精神科医と精神分析家にとって「実践臨床の役に立つ原理」の「知の伝承の場」として 役に立ち、尚且つ、ラカンの継承者としてとりあえずラカン死後その流れを継承していたジャック=アラン・ミレールが中心となった「コーズ・フロイディア ン」の、「臨床実践を支える根本原理を習熟する」ための超初期時代のセクション・クリニックを体験した。
 パリの国際会議場での、ラカンの「学派解散の日」は不思議と案内されなかったが、同じ場所での師のレクイエムに参加することはできた。目に焼き付いた師 の面影、感動的な場面がいまだに印象に残っている。ジャック=アラン・ミレールの弟である、現在フランスのTVで活躍しているジェラール・ミレールと友情 を結ぶこともできた。
 ラカンはある意味では、「パスは、不十分な精神分析の伝承には、不測の事態があり得た可能性が在り得ることで、“失敗だった”」と述べたという歴史はあ るらしいが、「私の臨床の全てが、陪席者、モニター、及びマジック・ミラーを通しての精神科医達に、主・客観的臨床的体験を保証する状況」で、事後的に、 診察状況に立ち会っていたスタッフが、「何が、臨床的に、治療に役立つ、要素であるか?」を、スタッフ全員に語ることができる場を保証し続けてきた。
 当日は取りあえず、私のラカンの「サン・トーム理論」の論説過程こそが、「パスを経ての“個々に創造的次元”の表象を可能にする」ということを踏まえ て、実体験を材料にした「パス」に関する考察を試みたい。

精神分析という道  平野信(こころの分析室/北小田原病院)

 私とは何なのか?この問いから始まる人生の旅をひとはいろいろな経路で歩いていく。精神分析をその経路として選ぶ、「精神分析する」とはそういうことで ある。分析主体が精神分析家のポジションに達し、ある者は精神分析家となるだろう。別の者は他の分野において、精神分析のディスクールを浸透させることに なるだろう。いずれにしても彼らは教師ではない。それぞれの人生の旅を教えることは到底不可能なことだ。精神分析の道にもいろいろなものが存在する。外見 上はIPAからラカン派に転向したように見える私の経歴も、私が自分の道を進む上で後付けでできたにすぎない。私が語ることをあなたはどのように聞いてく れるのだろうか?

以上