第24回ワークショップ

日本ラカン協 会第24回ワークショップ

  「エディプスと女性的なるもの」

  日時:2017年10月15日 14時〜17時
  場所:専 修大学神田校舎7号館774教室
     (〒101-8425 東京都千代 田区神田神保 町3-8)
  参加費:無料
  提題者:
   花田里欧子(東京女子大学)
   春木奈美子(京都大学)
  司会:立木康介(京都大学)
 
 フロイトが女児のエディプスコンプレクスの独自性(男女のエディプスコンプレクスの非対称)に気づくのは遅かった。1925年のことだ。
 男性と違って自分にはペニスがないと確認した女児は、自分がひどく「損なわれている」と感じ、男性と同じようにペニスをもつことを熱望するようになる (ペニス羨望)。同時に、自らと同じ不幸を被っている母親に幻滅し、母親から愛情を引き上げると、それをまるごと父親のほうに振り向ける。父親なら自分に ペニスをくれるかもしれない、いや、ペニスの代わりである子供をくれるかもしれない、と。そしてこのように父親に転移された欲望こそが、やがてペニスを もった男性(父以外の)への愛に、すなわちいわゆる「正常な」異性愛に、女性を導くだろう……。こうしてフロイトがたどり着いたのは、エディプスコンプレ クスと去勢コンプレクスの順序は男児と女児でまったく逆になるという認識だった。ここでは、男性性と女性性、男性の欲望と女性の欲望を、ペニスがあるか/ ないかの区別に由来する同一の論理で、つまり唯一の尺度で捉えようとする、身も蓋もないファリシズムが幅を利かせている。
 もっとも、このように去勢の一元論に支えられてのこととはいえ、フロイトがかろうじて男性性と女性性の非対称を際立たせるに至ったことは評価されてよ い。そこにフロイトを導いた要因のひとつは、母娘の前エディプス的癒着(ペニスの不在がまだ女児にとって問題にならない段階での母子密着)の重要性に遅れ ばせながら気づいたことだった。この発見は、「死の欲動」の導入に続くフロイト理論の地殻変動の陰に隠れてしまいがちだが、その晩年を代表する理論的成果 のひとつであると言わねばならない。にもかかわらず、この前エディプス的密着がもつ臨床的射程を、それを特徴づける激烈なアンビヴァレンツが女性のその後 の性生活にいかに重くのしかかるのかという実際的問題にほとんど収斂させてしまい、去勢コンプレクス以後に確立されるエディプス的な女性性のいわば余白 で、この母娘関係の名残がいかなる運命を辿りうるのかについて、フロイトがそれ以上掘り下げて追究しなかったのはいささか残念だ。実際、最晩年の名高い論 文「終わりある分析と終わりなき分析」においても、フロイトは去勢コンプレクスの二つの顕れかた、すなわち、男性における「去勢不安」と女性における「ペ ニス羨望」を、精神分析のプロセスのなかで分析家を「尋常でないほどひどく煩わせる」困難と位置づけながら、それを結局のところ分析では克服できない、そ れどころか克服する必要のない問題とみなすことで満足しているように見える。フロイトによれば、去勢不安は女性的な立場に置かれることへの強い拒否の形を とり、分析家の解釈やアドヴァイスをいっさい受けつけないというタイプの抵抗を引き起すのにたいし、「ペニス羨望」のほうは──ペニスの代理である子供が ほしい、ペニスをもった男性パートナーがほしいという願望の形をとって、根強く存続してきただけに──分析治療がこれを満たしてくれないことがわかると、 重篤な抑うつを生じさせるおそれがあるという。にもかかわらず、フロイトはそれらを、分析の作業がそこに到達すれば分析が完了したと考えてもよい「岩盤」 に帰することをためらわない。その岩盤とは、精神的なものがその上に基礎づけられるところの「生物学的なもの」であり、それに太刀打ちすることは精神分析 家の能力に余るというのである。
 このように生物学的なものへの信頼が顔をのぞかせるフロイトにたいして、ラカンの立場ははるかにラディカルだ。二つの大戦を経験したあとのヨーロッパに あって、ラカンにはもはやフロイトと同じ科学的理想を共有する必要がなかったのに加え、フロイトの時代にはまだ存在しなかった、あるいは萌芽的にしか見い だされなかったいわゆる「人間科学」(ただし、ラカン自身はけっしてこの呼び名を好まず、自らを「主体の科学」の担い手とみなしていた)の成果を参照でき る強みがあった。そこから、まさに男と女の差異についての、ラカンの次のような発言が生まれる──「私たちは今日、性の分化という問いにかんして、諸機能 の配分がいかにして、社会のなかで、〔そのつど二つの項の〕交代ゲームのかたちで根拠づけられてきたのかを知っている。それは、現代の構造主義が最もうま く説明できたことがらだ。構造主義は次のことを明らかにしたのである。すなわち、根本的な諸交換が実行されるのは姻戚関係の水準において──それゆえシニ フィアンの水準において──であり、その場合の姻戚関係とは自然による生成に、生物学上の系譜に、対立するものである、ということだ。そして、まさにそこ においてこそ、私たちは社会の動きの最も基本的な諸構造を見いだす。これらの構造は、ひとつの組み合わせを構成する諸項のうちに書き込まれなくてはならな い」(Séminaire XI, p. 138)。
 ラカンが念頭においているのは明らかにレヴィ=シュトロースの『親族の基本構造』だが、それを繙くまでもなく、この一節に込められた意図は見紛う余地が ない。性の分化に伴う諸機能や諸特徴を人間社会において支えているのは、生物学的事実ではなく、二項対立的構造をもつ「シニフィアン」の組み合わせであ る、とラカンは言いたいのだ。いいかえれば、ある個体が男もしくは女としていかに振る舞うか、いかなる配偶者を娶るか、それどころか、いかなる性格を身に つけるかに至るまで、他の動物においてならいざ知らず、少なくとも人間においては、生殖という目的に奉仕するあれこれの生物学的、生理学的、解剖学的機能 によってではなく、私たちの言語と文化を構成する要素にほかならないシニフィアンによって決定される、ということだ。ようするに、ラカンにしたがえば、話 す存在たる人間の性と生物学的性のあいだには埋めがたい断絶が存在しているのである。実際、いったんシニフィアンの構造に接続されるや、私たちの身体は本 来の生物学的事実とは根本的に切り離された別の現実──それをラカンは「象徴界」と呼ぶ──を生きざるをえない。とすれば、私たちの「性」もその例に漏れ るはずがない。両性の結合による「生殖」が、人間において、両性の関係をいささかも目的論的に規定しないことは、いまさら言うに及ばない。だからこそ、私 たちは性的にさまようことを余儀なくされもするのである。生物学的な目的性を奪われた性関係、それどころか、そのような目的からいくらでも隔たりうる圧倒 的な可変性、可塑性を与えられた男と女の関係は、何をめざし、どこに向かうのだろうか。もちろん、ここにはいかなる正解もない。人間が話す存在であ(り続 け)るかぎり、男も女もこの正解の不在だけが君臨する虚空を漂う運命を免れえない。そのことをラカンは、1970年代に一世を風靡するあの名高い、しかし いどこか謎めいた余韻を残すテーゼに凝縮して言い表したのだった──「性関係はない」と。
 このテーゼは、しかし、性関係の不在を「補填」する享楽が存在することを妨げはしない。ラカンはそこに二種類の享楽を区別する。ひとつは「ファルス享 楽」、すなわち男たちの、いや、それどころか、「去勢」のみに依拠しつつ自らの性的ポジションを決定するすべての主体たちが甘んじる享楽。それにたいし て、もう一方の享楽は、「去勢」を唯一の根拠としないことに同意する主体たち、それゆえファルス的なものが形づくる集団や享楽を「すべて」とみなすことか ら自由である主体たちに、つまりとりわけ女たちに開かれた享楽であり、カトリックの神秘体験者たちのそれにも準えられるこの享楽をラカンは「上乗せ享楽 jouissance supplémentaire」と呼ぶ。こうして、男女の差異はラカンにおいて、フロイト的な去勢の一元論から解放されると同時に、フロイトのもとでそれ が論じられていた欲望の水準とは異なり、享楽の水準で捉え直されることになる。しかし、このようにもたらされた光明は、同時に、いっそう深い陰翳を伴わず にはおかない。ラカンが去勢の彼岸に見出す女の享楽、女性たちが感じてはいても、それが何であるかを名指すことはできない「上乗せ享楽」とは、いったいい かなる享楽であり、精神分析的知がそれを捉えることはいかなる論理によって可能になるのだろうか?
 いや、私たちは、一足飛びにそこまで進まなくてもよい。いったんエディプスと欲望の水準に立ち戻り、ラカンによる新たな問いの措定に向けて、いかなる概 念の配置がエディプスの彼岸に「女性的なもの」を浮かび上がらせるのかを検討してみよう。二人の臨床家とともに。
(参考:立木康介「ラカンと女たち」I〜VI、『三田文学』No. 126〜No. 131)

春木奈美子「分析的観点から浮かび上がる女性的なものについて」
フロイトは女性について語るにあたり、ある種の失錯行為をおかしている。ときに引用元を誤ったり、ときに引用であること自体を忘却したりすることもあっ た。そうした女性性に関する「忘れられた」テキストを拾い集めたのが、Marie-Christine HamonによるFéminité Mascaradeである。そのうち、今回の発表では、ラカンも随所に言及しているJoan Rivièreの「仮装としての女性性」を取り上げつつ、母・娘・女をめぐって検討していきたい。

花田里欧子「家族臨床における「母」と「女」」
女性患者の心理臨床において、しばしば「母」と「女」が入り組みつつ立ち現れる。たとえば、なんらかの課題を抱えているとされる子ども(家族療法では Identified Patientと呼称する)自身の来談がかなわない場合、その保護者等との面談の形式をとる。このときしばしば母親に生じることとして、「母」として子ど ものことを相談しに訪れているにもかかわらず、いざ話を始めると、子どもの話はいっさいせずむしろ「女」としてその場にのぞまれることがある。本発表では 症例を通して、家族の観点を含めつつ、そのことの意味を問いたい。
 
 

  
以上