第22回ワークショップ

日本ラカン協 会第22回ワークショップ

       ヒステリー復権

 日時: 2016年10月23日(日) 14:00〜18:00
 
場所:東京大学駒場キャンパス18号館3階コラボレーションルーム3
  (〒153-8902 東京都目黒区 駒場3−8−1)
    参加費:無料

 ヒステリーという疾患が精神 医学から追放されて久しい。
 アメリカ精神医学会が発行する診断マニュアルDSMの第III版が神経症の概念を解体し、ヒステリーという疾病単位を削除したのは1980年だった。こ れは、精神分析が精神医学に囲い込まれて発展してきた米国での出来事だっただけに、精神分析、とりわけアングロ=サクソン圏のそれに強いインパクトを与え ずにはおかなかった。
 そうした趨勢から比較的自由だったラカン派においても、「ヒステリー」の臨床的地位は1990年代に急速に揺らいでゆく。ジャック=アラン・ミレールに よって1999年に提案された「ふつうの精神病」の概念が巻き起こしたブーム(といっても、実際には一学派内のローカルな流行の域を出ないのだが)や、そ れと並行して進んだ構造弁別的臨床(clinique différentielle)から連続論的臨床(clinique continuiste)へのフォーカスの移動のなかで、ヒステリーの存在感は決定的に失われつつあるように見える。
 だが、ヒステリーはこのまま忘却される運命にあるのだろうか。その点をいまいちど検証してみなくてはならない。今日、ラカン派がヒステリーにアプローチ するさいのひとつのアドヴァンテージは、ディスクールとしての、すなわち、構造化された社会的紐帯のひとつとしてのヒステリーを概念化できることだ。そし てその「ヒステリー者のディスクール」は、ラカンによれば、精神分析が存在するか否かにかかわらず──ということはつまり、仮に精神分析が滅んだとしても ──存在する。自分がどんな価値をもつ対象であるのかを相手が知りたいと思う、そうした相手の欲望を呼び覚ますのがヒステリー者のポジションにほかならな い。そこから再出発して、私たちはヒステリーのいかなる臨床像にたどり着けるだろうか。
 もちろん、現代のヒステリーはフロイトの時代、あるいはラカンの時代のヒステリーともはや同じ姿をしていないかもしれない。だが、ある身体部位に痛みを 抱えて心療内科を訪れ、心身症と診断された女性が、分析家が話を聴いてみると、古典的ともいえるヒステリーのケースであると判明することがある(精神分析 による主体のディスクールの「ヒステリー化」は、しばしばそのような鮮やかな形をとる)。臨床場面以外のところでも、たとえば、サイバネティクスや人工四 肢開発の最先端の成果が、ヒステリー的身体の構造を絶妙に模倣しているように見えることがある。その一方で、同一の薬剤の投与を受けた結果、原因不明の神 経症状に苦しむようになった何十人もの女性たちが、さながらヒステリー者のディスクールを体現するかのように、国や製薬会社という「主」を相手に訴訟を起 こすのを目の当たりにする。おそらく、ヒステリーはけっして消滅したわけではなく、その臨床的・社会的な出会われ方が以前と変わったがゆえに、そうとは見 えない形で潜行しているだけなのだ。それに光を当て直し、ヒステリーをいわば復権させることは、今日の精神分析が果たすべき課題のひとつであるにちがいな い。
 精神分析経験をもつ二人の臨床家とともに、それに臨みたい。
司会:立木康介(京都大学人文科学研究所)


提題
久保田泰考(滋賀大学保健管理センター)
「もし言説がなければ、ヒステリーはないのだ ろうか?」
‎ 数年来ニューロサイコアナリシスの観点から、ヒステリーの神経科学的基盤について考えてき たのですが、やはり言説という構造なしに脳・神経だけからヒステリーが片付くわけはありません(当たり前ですよね)。というわけで、当日は自閉スペクトラ ムや解離性同 一性障害の事例の経験も交えつつ、ヒステリーの言説について検討を深めたいと思います。

小林芳樹(東尾張病院精神科医師)
「ヒステリーと狂気のあわい(間)」
 精神病と神経症の境界の見極めが困難になってきた背景として、精神病の軽症化と同時に、提題 者は神経症が精神病に接近してきている側面も日常臨床を通じて感じている。この仮説を踏まえて、ワークショップでは2症例をラカン理論に依拠して提示す る。1例目は、当初ヒステリーと診断していたのが、治療が進むにつれてパラノイア構造(治療者が恐怖を感じるほどの転移性恋愛妄想、社会的紐帯からの孤 立)が明らかとなり、治療方針の変更を余儀なくされたケース。2例目は、当初メランコリーの診断の元治療を行っていたのが、やがてヒステリーの構造が隠れ ていることが明らかとなり、この構造を考慮に入れない限り治療が進展しないことを思い知らされたケース。 結局 1例目はヒステリーというよりも社会的紐帯から孤立したパラノイアのケースであり、2例目は慢性的に抑うつや希死念慮を訴えながらもメランコリー者のよう な切迫性はなく、むしろエディプス葛藤が中心で、社会的紐帯ともしぶとくつながっているヒステリーのケース である。これら2症例を通じて、今日におけるヒステリーを考察する好機としたい

    

以上