日本ラカン協会第6回大会研究発表要旨 環境倫理学研究における精神分析的観点の必要性 ――主体と社会の再帰化が進行する状況下での意思決定について―― 萩原優騎(国際基督教大学COEリサーチ・フェロー)  環境倫理学が意思決定の場面で有効に機能し得るには、どのような条件が必要となるのかということは、これまで全くと言ってよいほど論じられてこなかった。この点について、ラカン派精神分析における、主体の構造に関する視点を参照して考えてみたい。  概して従来の環境倫理学は、各々の場面の個別性を無視し、画一的な基準をあらゆる場面にパターナリスティックに適用しようとする、普遍主義的なものであった。それに対して、各々の地域の個別性を重視した意思決定の在り方を構想するとしても、主体と社会の再帰化が進行している今日の状況とその構造を考慮に入れる必要がある。伝統や自然などが反省の対象となるならば、それまで主体とその自明な日常を支えていた「想像的なもの」がある程度意識化されることで、結果として主体の不安定化がもたらされやすくなる。そのような状況では、画一的な基準をそのまま適用するだけでは問題解決を図ることは困難であり、新たな要素と伝統的な要素との関係性は、それぞれの場面において固有であるという認識から出発しなければならない。ただし、地域の多元性は静的なものとして捉えられるべきではない。問題に関わる当事者たちがそれぞれ反省的な視点を獲得し、相互批判的な営みを実践する中で、動的に意思決定がなされるべきであろう。しかし、以下に述べる点を検討することなく、地域の多元性に依拠した倫理を構築するだけでは、それが具体的な場面で有効に機能するとは限らない。  近代社会における意思決定の場面で機能してきたものの一つは、真理への到達や絶対的な解決策の存在を疑わないという、唯一解の想定である。その自明性を問い直すために注目すべきなのは、ラカンが「至高善」を禁止の対象として位置づけているということであろう。象徴的去勢を経ることで、禁止の彼方に存在するはずのものとして位置づけられた対象を求め続ける主体は神経症的である。去勢の受容において自覚されるのは、主体が現時点で選択しているものを根拠づけ正当化する「大文字の他者」は存在しないということ、それにもかかわらず、主体は何らかの選択を行わなければならないということにほかならない。この自己批判的な認識における「現実的なもの」との出会いを通じて、従来の認識の枠組みの再帰的な変容が経験され得る。こうして、自身とその依拠する伝統との関係性を組み替える可能性が生まれる。そこでは、これまで選択していたものが唯一絶対ではないということが受容され、一つの選択肢として相対化されるがゆえに、主体は多重的に帰属し、多重的な関係を形成することも可能になり得る。それは、主体の日常を構成する幻想の自己批判的な再配置が実現するということである。以上のような構造的視点は、多元主義的な観点の倫理学研究においても欠落しているため、倫理学的な枠組みが実際に機能するための条件についての問いは皆無に等しい。従来の幻想の自明性が揺らいだ今日の状況では、構造的な分析を欠いた意思決定論は有効ではなくなっている。  精神分析的な視点をも考慮に入れて問題解決を図り、自己批判的に新たな伝統を創出する試みが、これからの意思決定論には重要であろう。それに成功するならば、意思決定過程で考慮された、環境倫理学的な課題を実践することのできる状況が生まれる可能性がある。 ※今回の発表の主要な論点の詳細は、以下の論文で記述した。「自己批判的な主体の構造と再帰性――倫理が機能する条件に関する精神分析的考察――」、国際基督教大学大学院比較文化研究科博士後期課程博士論文、2006年。