日本ラカン協会第六回大会研究発表要旨 「歴史の終焉」以後の「性的差異」の問題  -ハンス・フェティッシュとドン・ジュアン― 入江容子 (一橋大学大学院言語社会研究科博士後期課程) アレクサンドル・コジェーヴは、1956年、『クリティーク』誌に、「最後の新世界」と題する一文を発表している。これは、フランソワーズ・サガンの二作品『悲しみよ こんにちは』と『ある微笑』の批評を中心に構成されたテクストである。コジェーヴは、戦後世代、つまり、「1945年世代」の若者を代表するサガンが描く小説世界を「新しいタイプの世界」とし、それを「人間=男l'hommesたちが、〈…〉完全に最終的に奪われているゆえに、新しい世界なのである」とした。「人間を欠いた世界、一人の少女によって見出された世界」、「歴史の終焉」以後の世界である、と。このポスト「歴史」の世界では、コジェーヴの規定するところの「人間=男」?英雄的死に向かう男、略奪する男、歴史を作る男、等々?は姿を消している。したがって、数千年来、彼らの暴力にされてきた女性たちはもはや「奪われる」ことはない。逆に、男たち―「人間=男」が消滅した以上「ホモ・サピエンスのオス」たち―は、自分自身を、女たち―「男らしさ」を担うようになった「アマゾネスのごとき娘」たち、「ホモ・サピエンスのメス」たち―に差し出すようになる、とコジェーヴはポスト歴史における男女の関係の変化を分析している。  ラカンは、『セミネールIV巻 対象関係』(1956?1957)において、フロイトによる「ある五歳男児の恐怖症分析」(1909年)の検討を行い、これに関連づけて、コジェーヴの批評を紹介している。ラカンによれば、この症例に登場するハンス少年の成長した姿は、コジェーヴが分析したような「1945年世代」の若者たち―「口説かれるのを待っている」、「ズボンを脱がせてもらうのを待っている」若者たち―である。というのも、ハンス少年は、「母親のファルス」(想像的欲望としての「母の欲望」)と同一化することにより、「自分自身がフェティッシュの対象としての何ものかになった自身の姿」を示したいと欲するような「受動的立場」に位置づけられるからである。ラカンにおいて、ハンス少年は、非典型的なエディプス関係の一例として分析されるが、それは、「1945年世代」の前身として、また、ヨーロッパ世界に非ヨーロッパ的な典型人物-「ファリックな女性」la femme phalliqueを追い求める人物-として登場する「ドン・ジュアン」の後身として捉えられている。  では、ハンス少年の「母親のファルス」との同一化形成はいかにして為されるのだろうか。本発表は、この問いを中心に検討することにより、コジェーヴによって提起された「歴史の終焉」以後の「性的差異」の問題を考察し、のちに、ラカンが「女性のセクシュアリティ」の形式として再び取り上げ直すことになるドン・ジュアン論の前提を提示したい。