日本ラカン協会第5回大会研究発表要旨  欲望の倫理 ; ラカンによるカント、カントによるラカン 〈精神分析の倫理〉とはなにか 福田 肇 (en these en philosophie de l'Universite de Rennes1)  本発表は、ラカンによるカント倫理の読解に視座を設定しつつ、その読解と、ラカンが「精神分析の倫理」と呼ぶものとを結び付けることを目的とする。  カントによれば、「生とは、或る存在者が欲望する能力の法則にしたがって行動する能力である。欲望する能力とは、この存在者が彼の表象を介してこの表象の対象を実現するための原因となる能力である。快とは対象あるいは行動と生の主観的条件とが、すなわち、或る表象の対象を実現することに関してその表象の原因性の能力とが一致しているという表象である」。換言すれば、「生」とは、カントの言葉で言うところの「実質的な実践原理」、つまり主体が或る対象の実現を表象することによって生ずる〈快〉を期待し手にいれることに存する、つまり主体の行動がパトローギッシュに動機付けられることに存する或る原理に帰される。その意味で、私たちは、「生」が基づくこの原理をいわばフロイト的快感原則と同定することができよう。  カントによれば、この「実質的な実践原理」に〈善〉は根拠づけられない。なぜなら、「生」を支配する原則のうちで捜し求められるものは――それがどのようなものであっても――結局のところ主体の〈快適〉(das Wohl)であって、〈善〉(das Gute)そのものではないからだ。カントの言う倫理の場所は、したがって、快感原則が支配する場所にはない。倫理は、「生」の彼岸、快感原則の彼岸にある或る原理――格律を普遍的形式たらしめることを意志の直接の規定根拠とするような行動原理――にもとめられなければならない。主体の格律が、そこへと持ち上げられるところの普遍的形式は、周知のごとく、「道徳法則」とよばれる。以上がカントの議論である。  ラカンは、決して充足されえない欲望――それが終極であるかぎりで――の対象たる〈母〉、近親相姦の対象、私たちが堪えることができない快感の極地、最高善、禁止された善を〈もの〉das Dingと呼ぶ。〈もの〉は「シニフィエの外」、排除された「外部」(Fremde)として、「フロイトが調整原理すなわち快感原則によって支配されるとわれわれに示す表象(Vorstellung)の運動全体がその周りをまわる異邦の項」(Lacan, S.VII, p.72)である。このとき、快感原則は、主体の〈もの〉に対する距離を調整するものである。表象の運動の中で〈快適〉(das Wohl)を手にいれることは、〈もの〉の〈善〉(das Gute)を代償満足において再び見出すことにすぎない。  それでは、ラカンの視点では道徳法則はここにどのようなポジションで介入するのか。ラカンによれば、「道徳法則は、〈現実的なもの〉(le reel)そのもの、それが〈もの〉の保証でありうるかぎりでの〈現実的なもの〉をねらいをつけて弁別される」(Lacan, S.VII, p.92)。〈現実的なもの〉それ自体は、想像されることも、〈象徴的なもの〉(le symbolique)にからめとられることも不可能であるがゆえに、〈不可能なもの〉(l'impossible)である。カントは、定言命法が命ずる義務に完全に基づいて行為することの不可能性をしばしば指摘するが、この不可能性は、道徳法則が「〈現実的なもの〉の重み」を現在化するというラカンの主張において理解されるべきだ。カントはまた、道徳法則が私たちの傾向性を挫折させることによって「苦痛」(Schmerz)の感情を惹き起こすと指摘する。なぜなら、道徳法則は――ラカンによれば――「生命的に欲望しうるものとして思いつくすべてのもの」に対して、つまり快感原則に抗ってみずからを肯定するからである。ラカンがこのように描く道徳法則は、フロイトが「エディプス・コンプレックスの直系の後継者」として解釈する道徳法則、苛酷な処罰を要求する「超自我の法」とは異なっている。  ラカンは、他方で、「道徳法則とは、近くから検討すれば、純粋状態での欲望(le desir a l'etat pur )にほかならない」(Lacan S. XI, p.247)と述べる。このことは、おそらくカントが言うところの、私たちが道徳法則を遵守する「動機」である「道徳法則に対する尊敬の感情」のラカン的捉え直しである。この「尊敬の感情」は、私たちが語の通常の意味で理解する「尊敬の感情」ではない。この「純粋動機」は、ナベールが指摘するように「自然的欲望のただなかに産み出される或る転化(conversion)」である。この転化は、「生」を規定するような他のいっさいの自然的欲望に由来せず、そのうちのどれかに属すことも、総体に属すこともないような、或る「純粋な欲望」(un desir pur)――ナベールはこの「純粋欲望」を「存在することの欲望」(desir d'etre)と呼ぶ――の出現と同期である(Nabert, Elements pour une ethique, p.106-107)。純粋状態での欲望は、私たちの傾向性との対立において惹き起こされる「苦痛」を目指すかぎりにおいて、享楽(jouissance)をねらう。ラカンが、処罰を要求する「小文字の法」(loi)に対して「大文字の法(Loi)とは、アンティゴネー以来知られているように、別のものである」と言明するとき、この「大文字の法」は、この「純粋状態での欲望」を含意するのではないか。  精神分析の倫理は、「行動に住まう欲望に対するこの行動の関係」を再検討の基準として選ぶ。そのとき、この倫理が対象とするのは、「善いものの配分」(service des biens)の処方や整備ではない。「行動に住まう欲望に対するこの行動の関係」は「死へ向かう存在」(etre-pour-la mort)の或る勝利の方へ向けられる。精神分析の倫理が、「あなたに住まう欲望に一致して行動せよ」(Agissez conformement au desir qui vous habite)(Lacan, S. VII, p.362)という命法を課すとき、この欲望の本性は何か、そしてそれは「死へ向かう存在」の勝利とどうかかわるのか。当研究発表では、最後に、これらの点を再検討してみたい。