※ なお、大会終了後、有志による懇親会を予定しておりま
す。
お時間に余裕のある方は、こちらの方にもご参加ください。
日本ラカン協会
第16回大会シンポジウム
主のディスクールの現在
2016年12月11日(日) 14:30-18:30
専修大学神田校舎 7号館731
提題者
福田大輔(青山学院大学)、松本卓也(京都大学)、小林芳
樹(東尾張病院)
司 会
原和之(東京大学)
1968年5月。64年の分裂以降に展開されてきた分析家のステータスをめぐる議論を踏まえ
つつ、ラカンが「精神分析的行為」のセミネールで分析主体と
分析家の関係に関する「普遍的」な議論の可能性の問いを立てつつあったその矢先に、いわゆる「五月革命」は起きた。ストライキの呼びかけに応じてセミネー
ルが中断される前に提出されていた「ディスクールの効果」としての「主体」という構想は、続く議論のなかで二つの方向に延長される。すなわち「パロールな
きディスクール」たる精神分析理論の中核をなす「対象a」概念のさらなる練り上げであり、もう一つがいわゆる「四つのディスクール」をめぐる議論である。
ラカンはそこで、シニフィアン連鎖をなすS1とS2、お
よびそれとの関わりで規定される主体、対象aの四項の布置によって「社会的紐帯」の4つの型を描
き出し、その中に精神分析に固有のディスクールを位置づけようとする。先立つ議論を集約しながら、新たに出来した状況のなかで精神分析を改めて考えるため
の枠組みを提示しようとする構想だが、このなかで「主のディスクール」は、言語的な関係から出発して四項の最も基本的な布置を定義するものであると同時
に、四項の回転によって導き出される他のディスクールにとってはその「場所」を定義するものであり、「四つのディスクール」全体の理解にとって要となる位
置を占めていた。
さて、ラカンが「主(maître)」と言うとき、そこ
では単に非対称的な社会関係における優位ばかりではなく、同時に「師(maître)」として
の、知の関係における特定の機能が問題になっていたという点は見逃されるべきではない。古くはプラトンの哲人政治にまで遡る、知と権力の構成するこの複合
体、いわば「主・コンプレックス」が、その伝統的な形を脱ぎ捨てて新たな形を取りつつあるということ。高等教育を震源として生じた68年5月の出来事以降
のフランス社会が現在進行形で証明しつつあったこうした変化は、やはり知をめぐって成立する非対称的な関係を基礎として展開される精神分析的関係にとって
も無関係ではあり得ない。そして「四つのディスクール」は、まさにそうした地殻変動との関わりで精神分析の位置を定め直そうとするものであったのだ。
我々がそこから半世紀近い時を経て、異なった文化的な環
境の中で「四つのディスクール」の議論を取り上げるということ、このことは一定の再文脈化の作業
を含意する。それはラカンがまさに問おうとしたことを、現代日本の具体的な状況に即してあらためて問い直すということであり、本シンポジウムでは、ディス
クールの基礎となる地形を決める「主のディスクール」の今日的かつ日本的なあり方に注目しながら、この再文脈化の作業を三人の提題者とともに試みてゆく。
原和之(東京大学大学院総合文化研究科)
−提題概要−
犯罪事件の精神分析的解説を反駁する手記について
―― 秋葉原連続殺傷事件をめぐって
福田大輔(青山学院大学総合文化政策学部)
2008年6月に起きた秋葉原連続殺傷事件の犯人である加藤智大には、母親もしくは恣意的欲
望を抱く〈他者〉によって体現された超自我によって支配され
た幼少期があり、その影響を受けて不安定な社会的紐帯をかろうじて維持しながら、ネット掲示板においてより自由な他者との交流を求めていた。こうした容疑
者像(当時)は事件直後からマスコミによって報道されたばかりではなく、片田珠美や芹沢俊介・高岡健らによって精神分析的観点から言及されたが、こうした
専門家の見解は加藤本人により反証されている。ここでは専門家によって提示された加藤の主体像が、加藤自身によってどのように分析され、どのようなメッ
セージに変容されて社会に返信されたかを追ってみたい。また今年度の活動テーマであった「四つのディスクール」の議論に接続させるために、加藤の専門家へ
の挑戦という振る舞いが、古典的なヒステリー患者の言動とどう異なるのか、言い換えれば、加藤の執筆活動とヒステリー者のディスクールとの差異を検討する
ことで、秋のワークショップで展開された議論に結びつけたい。
フロイトの集団心理学、ラカンの社会的紐帯論
―― ヘイトスピーチとレイシズムの事例から
松本卓也(京都大学大学院人間・環境学研究科)
フロイトは、集団心理学論文を執筆するにあたって、ル・ボンの『群集心理』を参照している。
しかし、ル・ボンの集団論が「旧来の信仰が動揺して消滅し、
また、社会の古い支柱が崩壊しつつある」時代の「群衆」、すなわち「指導者を欠いた集団」のことを論じているのとは対照的に、フロイトの興味は「指導者を
伴う集団」のことにほぼ限定されていた。後にラカンは、「論理的時間」論文においてフロイトを補うかのように、指導者に依拠しない「集団論理学」を論じ
た。そしてラカンの集団論は、「社会的紐帯」としてのディスクールの理論へと発展し、『精神分析の裏面』では、主人(≒指導者)が動因となる主人のディス
クールはもはや過去のものであるとされている。本発表では、近年、社会問題となったヘイトスピーチやレイシズムの事例を参照しながら、主人のディスクール
が過去のものとなった時代の集団の病理について論じる。
現代日本における父・知なき主人のディスクール
小林芳樹(国立病院機構東尾張病院)
度重なる少年犯罪の揚句の大阪池田小事件を経て、社会不安を鎮静すべく小泉政権下の2003
年に心神喪失者等医療観察法(殺人や放火などの重大犯罪時に
心神喪失等にて刑事責任を免責された者に対する医療を定めた法律、以下観察法)は国会でスピード成立し、2005年から施行された。その内実は治療者間の
ヒエラルキーを廃した一見民主的な治療構造に依る一方、責任の主体は裁判所にあるが、観察法と同時期に成立したのが裁判員裁判制度(人数で勝る裁判員が裁
判官の裁量を上回り得る世界で唯一の制度)である。シンポジウムでは、制度論的精神医療・フィンランドにおけるオープンダイアローグ(父はないが知はあ
る)と観察法医療・日本におけるオープンダイアローグブーム(父も知もない)の違いにも言及しつつ現代日本における主人のディスクールを論じる。