日本ラカン協会
第15回大会シンポジウム
「欲望機械」と「欲望の弁証法」─ガタリ、ドゥルーズ、ラ
カン
12月13日(日)14:00-18:00
専修大学神田校舎7号館731教室(3F)
司
会
立木康介(京都大学)
提
題者
佐藤嘉幸(筑波大学)
財津理(法政大学)
原和之(東京大学)
1972年に出版されたジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著『アンチ・オイディプス』は、フランスの精神分析、とりわけ、当時、事実上それを
代表していたラカン派精神分析に、かつてない衝撃を与えた。ガタリは長年にわたるラカンの「生徒」であり、そこから放たれた批判は、1950年代以来ラカ
ンとその実践がつねに晒されてきた、敵対者たちからのあからさまに政治的な批判とは異なり、ラカン理論のたしかな読解に裏打ちされた文字どおり内在的な批
判だったからだ。いや、フランソワ・ドスが指摘したとおり、『アンチ・オイディプス』は「ラカニスムが抑圧してきたものの暴力的な回帰」だったとすら言え
るかもしれない。ラカンによる「フロイトへの回帰」は、「無意識は言語のごとく構造化されている」という名高いテーゼに要約される。それは何よりも、「欲
望」をシニフィアンの構造のなかで、この構造の「法」に即して、捉え、読みとることを教える。ドゥルーズとガタリのねらいは、ラカンによって欲望に課され
たこの「象徴的決定」の枠組みを、件のテーゼごと吹き飛ばすことだった。こうして、『アンチ・オイディプス』において、欲望はその本性上シニフィアンから
解放され、あらゆる物質のあいだを自由に運動する「流れ」として捉え直される。同時に、「無意識」もまた言語の構造とはほんらい無縁なマシン、法にした
がって何かを意味し「表象」するのではなく、欲望の流れそのものにほかならない「生産」をひたすら行うマシン、すなわち「欲望機械」として定義し直される
のである。
ドゥルーズとガタリがラカニスムにつきつけたこうしたアンチテーゼに、ラカンとその弟子たちはどのように答えたのだろうか。残念ながら、『アンチ・オイ
ディプス』の著者たちと精神分析家たちのあいだには、対話ではなく、断絶だけが残されたように見える。ラカンはこの著作にたいして口を閉ざし、『アンチ・
オイディプス』出版以前には大いに賞賛していたドゥルーズの名すら二度と口にすることがなかった。ラカン周辺の分析家の多くは、「欲望機械」や「スキゾ分
析」をほとんど真面目に受け取らず、反対に、精神分析家としてのガタリの実践を中傷するキャンペーンをはった。精神分析はこうして『アンチ・オイディプ
ス』にいわば出会い損なったのである。この状況は、今日でも大きく改善されたとはいいがたい。
本シンポジウムがめざすのは、それゆえ、この空白を僅かでも埋めることにほかならない。立てられるべき問いは無数にある。1950年代にラカンが構築し
た「欲望の弁証法」の理論は、「欲望機械」の概念とまったく両立不可能なのだろうか。欲望機械の概念的ルーツがフロイトの「部分対象」とラカンの「対象
a」にあることは明らかだが、ドゥルーズとガタリが『アンチ・オイディプス』に取り組むのと同じ時期に、ラカンがこの「対象a」をめぐって進めていた新た
な理論構築の局面は、『アンチ・オイディプス』といかなる関係をもつのだろうか。ラカンの最も忠実な「生徒」のひとりだったガタリが、ラカンに明白に離反
する著作を世に送り出すに至ったのは、いかなる理由によるのだろうか。そもそも、『アンチ・オイディプス』を共同執筆したふたり、我が国ではしばしば
「ドゥルーズ=ガタリ」などと表記されてきたふたりは、同書に表された思考をすみずみまで共有していたのだろうか。そして、資本主義と家族/エディプスコ
ンプレクスの関係を内在的に捉える鋭利な視点をもたらした『アンチ・オイディプス』から、今日の精神分析はいかなる教えを汲みとるべきだろうか。
本シンポジウムでは、これらの問いに一線の研究者とともに臨み、ドゥルーズ、ガタリ、ラカンそれぞれの立場が絡み合う対話と議論を試みる。これは、逝去
20周年を迎えたジル・ドゥルーズへの、私たちの協会からのオマージュでもある。
−提題概要−
ガタリ=ドゥルーズ─『アンチ・オイディプス草稿』をめ
ぐって
佐藤嘉幸(筑波大学)
本発表は、フェリックス・ガタリがジル・ドゥルーズとの共同作業『アンチ・オイディプス』のために準備した『アンチ・オイディプス草稿』を読解し、ガタ
リ、そしてドゥルーズ=ガタリに固有な「分裂分析[schizo-analyse]」の試みの意味を考察する。その考察を通じて私たちは、「分裂分析」と
いうガタリの理論が、ラカン的な構造主義的精神分析理論へのオルタナティヴとして、「機械」、「横断性」といった概念を導入しつつ、(1)権力の内面化に
よって確立される超越論的主体を廃棄し、それに代わるまったく新たな集団的主体性を生産すること、(2)さらにはそうした集団的主体性の生産に基づいて、
ヒエラルキー的支配なき横断的社会を実現すること(「切断」としての社会革命)、を探求するものであったことを明らかにする。また、その過程で私たちは、
ガタリがドゥルーズに影響されつつ書いた論考「機械と構造」、そしてドゥルーズがガタリに影響を与えることになる『差異と反復』、『意味の論理学』をも分
析対象とし、ガタリとドゥルーズの相互的影響関係を明らかにすることを試みる。
*
『差異と反復』と『アンチ・オイディプス』における欲望の
概念
財津 理(法政大学)
『差異と反復』における欲望(désir)の概念を明確化するに際して、いったん、ドゥルーズが言及している二つの著作、すなわちラカンの「治療の指導
とその能力の諸原則」(邦訳『エクリV』所収)における欲望とフロイトの『科学的心理学草稿』における願望(Wunsch)を参照し、さらに『マゾッホと
サド』において「死の欲動」から区別される「死の本能」の意味(超越論的原理)を考察し、こうして『差異と反復』における部分欲動と部分対象のドゥルーズ
による解釈を検討しながら、「無意識は欲望する」という記述における欲望(désir)の概念の特徴を際立たせる。『アンチ・オイディプス』における欲望
の概念に関しては、ラカンの「存在欠如(manque à
être)」やプラトンにおける欲望の概念と比較しながら、「欲望には何も欠如していない」あるいは「欲望する生産」という表現の意味を考える。ところ
で、アルトーの器官なき身体は、すでに『意味の論理学』でラカンの寸断された身体との対比で捉えられており、『アンチ・オイディプス』においては、欲望す
る生産は、器官なき身体との対比で、生産の生産、つまり欲望する機械だとされている。ここから、『アンチ・オイディプス』における欲望の概念の特徴を明確
化し、『差異と反復』における欲望の概念と、『アンチ・オイディプス』における欲望の概念との連続性と差異を考察する。
*
ラカンにおける「欲望」とその「対象」:
「エディプス」的布置とその再編成
原 和之(東京大学)
欲望についてその「弁証法」を考えるということ、それは欲望を主体と〈他者〉の「言語」的な関係において考えるということであり、「知」との関係におい
て考えるということである。こうした観点からラカンが1950年代に前エディプス期とエディプス期を総合した「エディプス(l’Œdipe)」の再定式化
を試みた際、まず問題となった「対象」とは、主体が知ることを欲望する〈他者〉の欲望の対象、すなわちファルスであり、想像的なファルス(φ)であった。
ファルス(φ)を主体が〈他者〉を介して解決しようとする問題のいわば「未知数=x」として考えるこの構想を出発点として、ラカンは「エディプス」をこの
xの探究の過程として捉え直そうとするわけだが、この「エディプス」との関わりにおいて「対象」には複数の水準が区別される。まず「エディプス」の出口に
おいて「父の名」の効果として成立する、将来的な贈与の対象としての象徴的なファルス(Φ)の水準。さらに「エディプス」をめぐる議論のなかで、ラカンは
人間の欲望に、身体的な満足の対象に向けられた「欲求」、〈他者〉(の欲望)を対象とする「要求」、そしてそのいずれとも異なる狭義の「欲望」の三水準を
区別するが、とりわけこの狭義の「欲望」との関わりにおいて、「対象a」の水準が主題化される。この「対象a」はまず、「エディプス」がその最外延を規定
しているような、欲望の言語的=知的な分節化の「外」に位置するものとして位置づけられたわけだが、のちにラカンがいっそう根源的な地点から、すなわちそ
もそも欲望する〈他者〉を介して解決することが目指されていた問題である、〈身体〉ないし「欲動」の水準から出発しつつその理論を再編しようとするにあた
り、その議論の中心を占めるようになる。本提題では、こうしたラカンにおける「欲望」とその「対象」の問題の「エディプス」的な布置、および後期ラカンに
おけるその再編成について、一定の見通しを得ることを目指す。