1. 研究発表 9:00〜12:00 (発表時間30分、質疑応答15分)
9:00-9:45 数藤久美子
「王妃の置き換え」--王の場所へは警察を
通って
司会: 磯村 大(金杉クリニック)
概要:「盗まれた手紙のゼミナール(以下「ゼミナール」)」は、ラカンが精神分析における反復
の構図をポゥの短編小説に展開したものである。すり替えられて移動する手紙に伴って、手紙との関係の構造が反復されていく。ラカンがハイライトするのは、
手紙が形成する3つの項への割り振りであり、シーンが反復される動機づけである。
本発表では、ラカンがシーンとしてとりわけているふたつ
のシーンのうち、物語の発端が、本文中手紙が見えない位置とされている警視総監の話により始まっていることに着目し、物語ることによるシーンの変換につい
て考察したい。大臣に拠る手紙の移動と異なり、この場所の交代は、最初は王妃によって王から警視総監へ渡される。3者関係の構造を決定づける手紙が、象徴
の場の機能を担う大臣によって移動するのに対して、王の場は、想像界から働きかけられていることに注目したい。原シーンはその場を担う警視総監によって語
られるのである。
ラカンは、「精神分析における言葉と言語活動の機能と領
野」(1953)
で、物語ることによる言語化―verbarisation―について述べている。ラカンによれば、物語るということ自体が、それ以前とそれ以後を決定的づ
ける言語行為なのである。そのことを考慮すれば、王の位置を引き継いだ者を物語る行為へと促す、王妃の最初の手順に目を向けることは有益であると思われ
る。本発表では、原シーンから第二のシーンへ場所を移す王妃の行為に焦点を当て、見抜く行為による変換に対して、物語る行為による変換を対照させたい。そ
れぞれがすり替えてひきついだもの、残余として残したものを検討することによって、象徴の秩序と想像界がどのように関係しあって現実へ参与するのかを考察
できることが可能であると思われる。
現在「ゼミナール」の英訳は、Jeffrey MehlmanのものとBruce
Finkのものがあるが、ラカン自身が論の中で、ふたつのシーンの3者を割り当てていることもあり、原シーンから次のシーンへ踏み出す王妃自身の場につい
てもまた、曖昧さが残されている。大臣が手紙を手中にすることによって王妃の場所に移動するように、物語ることによって人は王--盲目の場を占めるという
ことが考えられるのではないだろうか。大臣が設定したものに王妃の行為がどのように関連していくのか、それを通して物語るという文学にきわめて特有の行為
を考えることがこの発表の目的である。
10:00-10:45 岸井 悟(青山学院大学大学
院)
精神分析における「量」の理論的取り扱い
の難しさ
司会: 福田 肇(樹徳中高一貫校)
概要:フロイトは、草稿として残ってはいるものの、結局の
ところ破棄してしまった抗争である「心理学草案」の冒頭、第一公理を「量的把握」と題している。「草稿」では「量的把握」という概念について、「病理学
的・理論的観察から直接引き出されたもの」であるとしている。この点については、たとえばポール・リクールは『フロイトを読む––解釈学試論––』におい
て、この「量」は、「単位について一切述べられて」おらず、それ自体が隠喩的なものであるという。
他方、フロイトの実質的な遺作と言われる「終わりのある分
析と終わりのない分析」において、フロイトが考察を進めていく中で出会うのは、欲動の「強度」や自我の「変容度合い」が、「どの程度のものなのか」という
「量的ファクター」が、いかに分析の限界を定めているのか、ということであった。また、混沌の中に秩序をもたらす一般法則を発見する事は、周囲の世界をそ
の「質的な変化を捉える」ことにより克服するためには不可欠であるが、しかしその時、「量的ファクター」がおろそかにされることは避けられない、とフロイ
トは言う。
このように、フロイトの構想は、量に始まって量に終ってい
る。たとえば、「ナルシシズムの導入に向けて」などでは、疾病をリビドー量の配分によって説明をしており、「量による説明」に自体は注目されているところ
である。しかしながら、量そのものの素性あるいは正体については、「快原理の彼岸」で「快と不快の感覚が有する意義」については「有益な理論が乏しい」と
フロイトが自ら言うのと同じように、またフロイト自身が「生物学の領分である」というように、やはり不分明である。
本報告では、「量的ファクター」について、フロイトが
1911年から14年にかけて執筆した技法論文を中心に参照しながら、その理論的な取り扱いの特殊な難しさについて検討する。
11:00-11:45 諸岡優鷹(青山学院大学大学
院)
独我論の「私」はどのようなものなのか−ラ
カン的観点から
司会: 伊吹克己(専修大学)
概要: 独我論とは、本当に存在するのは「私」だけである
と主張するものである。(「私」という語を、ラカン的な「主体」や「自我」を含めた広い意味で、一般的に自分自身を指す言葉として用いる。)あらゆるもの
は、知覚や感覚として「私」において現れたものであり、「私」の外側には何も存在しない。そしてその知覚や感覚は「私」において現れるものであり、他者に
おいて現れるものではない。
本研究発表では、こうした独我論的な「私」がどのような
ものであるのかを問題にする。特に、他者を否定して「私」の存在の唯一性を主張する独我論について取り上げることにしたい。まず永井均の独我論を取り上
げ、それから入不二基義による永井の議論の発展を追う。それから独我論的な「私」のあり方が抱える問題を論じる。これらの独我論をめぐる問題を、ラカンの
理論を参照することによって検討する。
永井は、意識を持つのは「私」だけであって他者は意識を
持たない、という独我論を提示する。ところで永井の議論における「意識」は、精神分析における「意識」とは異なる。永井における「意識」は、自分自身の心
の存在を表す語であり、それは現象的なクオリアによっている。ゆえに永井の独我論は意識の存在、あるいはクオリアの存在によって「私」の存在の唯一性を論
じるものである。入不二は永井の議論を発展させ、クオリアの湧出する背景の存在を論じる。このクオリアの背景は、認識可能なものではなく、言語化可能なも
のでもない。それは意識の埒外にあるものである。したがって入不二の議論に従えば、独我論のよりどころであった意識あるいはクオリアは、その外側に存在論
的な足場を持つことになるのである。
また独我論には別の問題がある。意識の存在を「私」の存
在のよりどころとするならば、睡眠中のように、意識が無いときの自分を「私」と見なすことが不可能となってしまうのである。だが、意識が無いときの自分を
「私」として受け入れるということは一般的なことである。したがって、一般的な「私」というものは、独我論的に意識の存在によってだけではなく、それ以外
の何かを自分と見なすことによっても成立していると考えられる。
以上の議論を、ラカンの議論を参照することで整理するこ
とができる。ラカンによれば、「私」というものは鏡像段階によって形成される。「私」に対し、他者が先立つのである。またセミネール11巻において論じら
れた疎外の問題は、大文字の他者の領域に位置を持つことによって主体は開設されるが、同時に主体の存在は失われるというものであった。疎外において失われ
る主体の存在とは、入不二が論じたクオリアの背景にほかならない。
それゆえ独我論とは、他者の存在によって成立するはずの
「私」が、疎外によって失った存在を取り込み、他者を否定するものだと結論づけることができるだろう。
2. 昼休み 12:00〜13:30
*この時間に理事会が開催されますので、理事の皆さんはご
参集ください。
3. 総会 13:30〜14:15
@ 議長選出
A 会務報告… 論集刊行に関する報告など
B 決算(2012/2013年度)審議
C 予算(2013/2014年度)審議
D 次年度活動計画について
4. シンポジウム 14:30〜18:30
「不安」の経験 ― キルケゴール・ハイデガー・ラカン
提
題者
藤
野寛(一橋大学)
斧
谷彌守一(甲南大学)
若
森栄樹(獨協大学)
司
会
磯
村大(金杉クリニック)
コ
メンテータ
加
藤敏(自治医科大学)
※ なお、大会終了後、有志による懇親会
を予定しております。
お時間に余裕のある方は、こちらの方にもぜひご参加くだ
さい。
日本ラカン協会
第13回大会シンポジウム
「不安」の経験 ― キルケゴール・ハイデガー・ラカン
2013年12月1日(日) 14:30-18:30
専修大学神田校舎 7号館731
提題者
藤野寛(一橋大学)
斧谷彌守一(甲南大学)
若森栄樹(獨協大学)
司 会
磯村大(金杉クリニック)
コメンテータ
加藤敏(自治医科大学)
昨年ラカン協会では、東北大震災と原発事故と関連して「『哀しみ』を取りもどす ―
喪・メランコリー・抑うつ」というタイトルのもとに「喪」と「悲しみ」をテーマとして取り上げました。今年はこの問題をさらに掘り下げるために「不安」を
テーマとしました。「不安」はフランス語やドイツ語の「Angoisse,
Angst」という語を(不十分に)翻訳したものです。我々の意図は、日本ではまだ漠然としか意識されていない「不安」が西欧ではどのように理解されてき
たか、そして、それが我々にどのような意味をもちうるかを問うことです。
実際、「不安」はヨーロッパでは、パスカル、キルケゴー
ル、ハイデガーのような人々によって根本的な問題として取り上げられましたが、彼らの問いかけは西欧的文化の歴史、特にキリスト教をふまえており、我々に
はいささか疎遠であるかのように思われています。しかし我々は否応無く「グローバル化」された世界に生きており、「不安」の問題はますます人ごとではなく
なりつつあります。
ラカンはセミネール第10巻「不安」で、この問題につい
て非常に独創的な考えを示しました。彼によれば「不安」の根柢には「対象a(objet petit
a)」と呼ばれるものが作用しています。今年の10月27日に行われたラカン協会ワークショップは「精神分析の『対象objet』」が主題でしたが、本大
会ではワークショップで扱われた「対象」の問題を更に「不安」との関連で深め、現代社会が本質的に抱えている諸問題を精神分析の観点から再考したいと考え
ています。そのため、今もなお輝きを失っていないキルケゴールとハイデガーの「不安」理解について藤野寛氏と斧谷彌守一氏に最初にお話しいただき、その後
ラカンが「不安」のセミネールで述べている「不安」とその「対象a」への関係、「不安」から「欲望」への道筋などについて若森がお話しするという構成に
なっています。
皆様のご参加を心よりお待ちしております。
(若森栄樹)
−提題概要−
新たな経験の反復、という逆説―キルケゴール不安論のコン
テクスト
藤野寛(一橋大学)
不安の解釈は、強引に、三分類できないか。@症状としての不安Aシグナルとしての不安
Bhuman
conditionとしての不安である。@では、不安は取り除かれるべきもの、治すべきものだ。Aでは、不安はより根源的な問題の存在を指し示すしるしと
見なされ、それ自体としては有用、ということになる。(フロイトはこの見解か。)Bは、不安の内に生きることは人間として生きることから切り離せない、と
いう考えであり、だから、取り除くだの治すだのというのは見当はずれの方針になる。キルケゴールはBの立場を強く打ち出す議論をした。新たな経験を反復す
る、という逆説の中にあるのが人間の生であり、そこには避けがたく不安がつきまとう、というのだが、これはキリスト教徒にしか当てはまらないお話ではな
い、と言えるだろうか。
*
「不安」の場所としての言葉─ハイデガー「不安」論
斧谷彌守一(甲南大学)
ハイデガーは『存在と時間』で「死の許に存在すること(Sein zum
Tode)は本質的に不安である」と書き、『形而上学とは何か』で「不安は無(Nichts)を露わにする」と言う。不安は、死・無という深淵的・非対象
的なものとの関係性によって生まれる。後期ハイデガーになると、「言葉」がそのような深淵的な場所となる。罪悪感と没落感に充ちたトラークルの詩を取り上
げつつ、不安の場所としての「言葉」について考える。
*
不安から欲望へ――ラカンのセミネール第10巻「不安」に
ついて