日本 ラカン協会第12回大会プログラム

 日時:2012年12月9日(日) 10:00〜18:00
 場所:専 修大学神田校舎7号館731教室(3F)
     (〒101-8425 東京都千代田区神田神保 町3-8)
 交通: 営団地下鉄・神保町駅 徒歩3分
 大会参加費 :無料

1. 研究発表 10:00〜12:00  (発表時間30分、質疑応答15分)


  10:00-10:45   中村 亨(中央大学商学部)
            「『盗まれた手紙』における、
            <見る>ことと<男性的>立場について
             −語り手の役割から考える」
            司会: 若森 栄樹(獨協大学)

概要:本発表ではポーの『盗まれた手紙』に ついて、ラカンの読解を参照しつつ解釈を行い、その解釈を通して、見るという行為とジェンダーの関係について考察したい。特に、ラカンの読解では言及がほとんどなかった物語の二 人の語り手「私」と警視総監の役割に注目し、入れ子細工の語りにおいて反復される、去勢化への抵抗について検討を加えるつもりでいる。考察に際しては、鏡 像段階とパラノイアについてのラカンの論考も参考にしたい。

 11:00-11:45  福田 肇(樹徳中高一貫校)
           「挫折の構造」(Structure de l’échec)
           司会: 川崎 惣一(宮城教育大学)

概要:「鬱」はしばしば、或る〈過ち〉や〈挫折〉をきっかけとして発症することがある。過ちにおいてひとは後悔の念、自責の念に憑かれる。しかし、挫折も また、同様の〈道徳的な〉自己非難を伴う。ナベール(Jean Nabert)によれば、挫折の経験において、ひとは、たとえ或る企図の頓挫が客観的にはやむをえないことであったとしても、自らの行為の諸帰結に対する 責任を、企図を発動させた自分の意志まで遡らせる。こうして挫折は、自分が望むべくもないものを望んでしまったこと、言い換えれば諸事物の秩序がつきつけ てくる命法に違反してしまったことへの〈処罰〉(sanction)として現れる。われわれは、具体的な特定の挫折の諸体験をこのようなかたちへと組織化 するその原理とされるもの、すなわちラクロワ(Jean Lacroix)が「全実存の挫折である、(大文字の)根本的挫折」(Echec radical, qui est échec de l’existence entière)と呼ぶもの、あるいはナベールが「〈私〉の〈私〉自身に対する不等性」(inégalité du moi au moi)と呼ぶものを検討し、彼らが哲学の文脈でこれらの概念で示そうとしたものの、ラカンが言う「それによって存在が実存するところの〈存り損ね〉」 (manque d’être par quoi l’être existe)に対する類縁性をさぐる。
 
2. 昼休み  12:00〜13:00

*この時間に理事会が開催されますので、理事の皆さんはご参集ください。

3. 総会  13:00〜14:00
 @ 議長選出
 A 会務報告… 論集刊行に関する報告など
 B 決算(2011/2012年度)審議
 C 予算(2012/2013年度)審議
 D 次年度活動計画について

4. シンポジウム 14:00〜18:00

「哀しみ」を取りもどす ― 喪・メランコリー・抑うつ
Ressaisir « la tristesse » : deuil, mélancolie, dépression

提題者
内海 健(東京藝術大学保健管理センター)
樫村 愛子(愛知大学/社会学)
向井 雅明(精神分析家)

司会
原 和之(東京大学)


※ なお、大会終了後、有志による 懇親会を予定しております。
 お時間に余裕のある方は、こちらの方にもぜひご参加くだ さい。


日本ラカン協会
第12回大会シンポジウム
「哀しみ」を取りもどす ― 喪・メランコリー・抑うつ
Ressaisir « la tristesse » : deuil, mélancolie, dépression

2012年12月9日(日) 14:00-18:00
専修大学神田校舎 7号館731

提 題者
内海 健(東京藝術大学保健管理センター)
樫村 愛子(愛知大学/社会学)
向井 雅明(精神分析家)

司 会
原 和之(東京大学)

 近年「うつ」の問題がクローズアップされてきたことが、現代人が抱える心の問題と それへの対応 の必要が広く認知されるにあたり、大きな貢献を果たしたということは言うまでもない。しかしその一方で、そうした動きがまず労働者の精神衛生という文脈で 進んだことによって、この問題をめぐる議論にはしばしばいくつかの暗黙の前提が紛れ込んでくるように思われる。すなわちこの言葉で呼ばれる状態の非生産性 であり、可能な限り早期の労働環境への復帰という目標であり、さらにはそこで求められる介入の効率性である。
しかし「うつ」と呼ばれる現象は、そうした文脈を超え出る 広がりを持つ。そもそもそれは、つねに病理的であるとは限らない。人が肉親の死のあとで沈み込んだ様子を見せるのを、わたしたちはあくまで自然な反応であ ると考えるし、正常な発達の一段階が「抑うつ態勢」と名付けられることを、わたしたちは矛盾とみなすことはない。それは、わたしたちの経験の一部を無理な く構成しうるものであるし、成長の重要な一契機となりうるものでもある。また生産ということについて言うなら、長い間メランコリーが、すぐれて創造者の病 と考えられていたことを忘れてはなるまい。その上でなおそれを非生産的と言い募るのであれば、そこで前提されている「生産」概念の硬直こそが問い直される 必要があるのではないか。さらにわたしたちが生きていく上で喪失の体験が避けがたいものであるとするならば、「うつ」と呼ばれる現象は、わたしたちの生と 不可分なものであるといえはしないか。だとするならばこの現象への介入の「効率性」も、異なった仕方で考えられる必要があるのではないか。
これらの指摘はすべて、「うつ」と呼ばれる現象を、それを 語る際に用いられる「正常」「病理」等のさまざまな概念装置を、そしてその語りを枠づけるさまざまな文脈を、より繊細に位置づける必要性を示唆している。 本シンポジウムではこうした作業を行うにあたって、そしてそうした作業を行った上で、精神分析がどのような貢献をもたらすことができるかを考えてゆきた い。
 

−提題概要−

鬱と対象喪失             
                    内海 健(東京藝術大学保健管理センター)

 鬱とフロイト-ラカンの精神分析との間には、ごくかぼそ い通路しかありません。ごくわずかの言及しかなく、また転移が起こらない病態であるがゆえに、臨床的な手掛かりをみいだすのが困難です。その中で、フロイ トの「喪とメランコリー」は、小論ながらも、うつ病の理解に対して妥当な見解が投げかけられています。メランコリーは対象喪失であり、かつそれが自己喪失 に通底していること、そしてきわめて自己愛的な病態であることなどがそれにあたります。加えてこの論文で、フロイトは抑圧という概念を使わず、同一化とい うそれまでとは別の対象へのかかわりを提示しています。「快原則の彼岸」に始まる後期の思想へと転換する前哨として、さまざまな可能性をはらんだテクスト であることをうかがわせます。他方、ラカンにおいては、対象a、そして剰余享楽という概念が、うつ病論をさらに展開させるものとして、大きな可能性をもっ ているように思われます。こうしたことをふまえた上で、鬱と対象喪失の関連、そしてできれば現代の「うつ」についても考察を加えてみたいと思います。

うつとネオリベ/リスク社会
                           樫村愛子(愛知大学/社会学)

 ラカン派によって昨今、「資本主義のディスクール」や 「新しい心理経済」など、葛藤や無意識(「哀しみ」や喪)を排除するネオリベラリズムの特性が指摘されていますが、それがうつ(および躁的防衛)という現 代の症状と親和性を持っていることを、社会学的な観点からも光を当てていきたいと思います。外傷の社会的構成を論じたリスク社会論や、フロイトが論じな かった心理/社会の接点としての「恥」(ティスロン)、シミュラクルとしての自傷、躁的防衛としてのネオリベ心理文化などを分析し、また具体的に「3・ 11」によって世界的な外傷を刻印されリスク社会としての現実に直面せざるをえなかった日本社会が、外傷や喪をどのように社会的に構成し「ポスト3・ 11」を生きようとしているのかについても触れられればと思います。


精神分析的観点から見た抑うつ           
                            向井 雅明(精神分析家)

 今回のラカン協会のシンポジウムは『「哀しみ」を取りも どす ― 喪・メランコリー・抑うつ』ということですが、私は『精神分析的観点から見た抑うつ』というテーマで発表したいと思います。テーマに「精神分析的観点から 見た」という一節を加えたのは、精神分析が本質的に精神医学とも社会学とも違った観点から「うつ」という現象を扱うからです。現代の精神医学はうつを脳の 機能の問題とし、社会学はうつを社会的問題の反映だとします。どちらも「うつ」における主体性というものの関与を否定します。それにたいして精神分析は主 体的次元によって構成される倫理性を重要視します。この倫理という言葉はラカン的な意味で使っているわけですが、今回の発表では「うつ」における倫理性を 考察したいと思っています。